1980年代から、まさに群雄割拠というべき活況を呈し始めていた高級車マーケット。現代に於ける“盟主”とも言うべきメルセデス・ベンツは、R-Rシルヴァー・スピリットとその派出モデルに匹敵するサイズを持ち、トップモデルには400HpオーバーのV12エンジンまで擁するW140系Sクラスをデビューさせたことで、その覇権をさらに強力なものとしていた。対するBMWもフラッグシップの7シリーズに12気筒エンジンを投入し、そのスムーズさでは「ロールス・ロイスを超えた」とまで評されることになった。さらに1990年代に入ると、新たにレクサスなどの日本車までもが高級車マーケットに進出を果たすようになっていた。このような事態を見て、かつては超高級車として特別な存在であったはずのロールス・ロイス/ベントレーも、移ろいやすい高級車マーケットの淘汰に晒されるようになった結果、各モデルのセールス状況は同社始まって以来の窮状を迎えることになる。しかし、いかに1980年デビューのシルヴァー・スピリット系モデルたちが旧態化しようとも、当時のロールス・ロイス社には自社のみで新しい新車展開を行うだけの体力は残っていなかった。つまり、新たなパートナーシップが必要となっていたのだ。
こうして1992年になると、ロールス・ロイス社はドイツのBMWグループと提携を結ぶに至る。それは、やむを得ない選択であった。そして1994年12月には、BMWの援助のもとで「P3000」のコードネームとともに、シルヴァー・スピリット系に代わる新型車の開発が正式にスタートすることになったのである。この業務提携のもと、1998年3月3日に、18年ぶりのニューモデルとして“シルヴァー・セラフ”が発表されることになる。セラフとは「光、情熱、純潔」の意味も持つが、同時に「熾天使(最高位の天使)」という意味もあった。またシルヴァー・セラフでは、車そのものに加えて生産体制についても大幅に近代化され、クルー工場ではロボット製造による工程も一部だが導入されることになった。
シルヴァー・セラフのボディは、シルヴァー・スピリット系のビジネスライクなデザインが見直された結果、1950-60年代のシルヴァー・クラウド系をモチーフとした、ロールス・ロイス伝統のエレガントで流麗なスタイルが与えられることになった。このデザインワークを担当したのは、1996年からロールス・ロイス社のチーフスタイリストの地位にあったグレアム・ハル。ロンドンにある世界の美術大学の最高峰、“ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)”の修士号を取得した直後となる1971年にロールス・ロイス社入りを果たしたのち、R-R一筋でたたき上げてきた生え抜きのデザイナーで、シルヴァー・シャドウⅠの時代からロールス・ロイス/ベントレーのデザインに関わってきたハルは、エヴァーデン&ブラッチリーのコンビが築き上げてきたロールス・ロイス独自のデザイン・フィロソフィーを熟知した人物と言えるだろう。
伝統のパルテノン神殿型グリルを備える4ドアサルーン・ボディは、スピリット系に比べて全長で約110mm、車幅は約40mm、全高も30mmほど拡大されている。しかも、ボンネットや4枚のドア、トランクなどの開口部は従来のアルミからスティール製に変更されていたのだが、ベントレー・コンティネンタルRの開発時に初めて導入された最新のCADシステムがさらに広範囲で活躍するようになった効果もあって、ウェイトは約160kgもの軽量化に成功していた。また、ボディのねじり剛性は、旧スピリット系対比で約65%も向上。前後の重量配分もFR車としては理想的な50:50となった。さらには、それまでのロールス・ロイス製サルーンでは一顧だにされなかったエアロダイナミックスにも格段に気が遣われ、Cd値は0.38という現代の高級サルーンとしても不足ない数値となった。一方、これだけ堂々たるボディサイズを誇りながらも、インテリアの空間はフロント/リアともに比較的タイトに設えられるなど、実用性や効率よりもあくまでロールス・ロイスに相応しい品格を重んじたパッケージングとなっているのは、やはり伝統に則った結果であろう。
一方パワーユニットについては、吸収合併劇の遥か以前からBMW製エンジン供給の合意が成立していたことから、R-R自社製のV8気筒OHVエンジンはついに姿を消して、BMW7シリーズ用に端を発する新しいV型12気筒エンジンが搭載されることとなった。これまで本書でもことあるごとに述べてきたとおり、ロールス・ロイス社は伝統的にエンジンのパワースペックを公表せず「必要にして充分」とだけコメントしてきたのだが、BMW色の格段に濃くなったシルヴァー・セラフでは、正確なパワー表記を求めるドイツの工業規格に従うため、長い伝統を破ってエンジン性能を初めて公表するに至った。5390ccの総排気量を持つV型12気筒SOHCユニットのマキシマムパワーは326Hp、最大トルクは50.2kgmで、これもBMWと共用の独・ZF社製5速オートマティックとの組み合わせで、0→100km/hは7.0秒で加速し、マキシマムスピードは225km/hに達すると称された。
また、サスペンションは前後ダブルウィッシュボーン/コイルの組み合わせに、電子制御の可変ダンパー車高自動調整仕様でスタビライザー付きとされた。従来の車重に対して不充分と評されることのあったブレーキも大幅に強化され、ABS付きの油圧式サーボを備えた4輪ベンチレーテッド・ディスクとなった。加えて、こちらも電子制御のトラクションコントロールも装着。ブレーキやアクアプレーニング現象まで対応した仕様とされた。
さらには、ステアリングについても従来のスピリット系と同じラック&ピニオン+パワーアシストながら、従来のおおらかだが曖昧なフィールが改善されて、シュアかつクイックなものとされるなど、従来型のショーファードリブン重視と比べてオーナードライバーの需要に向けたと思しき要素が数多く見受けられる。これは、もとより自らステアリングを握るオーナーの多かった北米マーケットのみならず、イギリス本国内でも世代交代などの要因でオーナードライバーの比率が急増した事情に対応したものと推測されよう。
インテリアにはR-R伝統のウッドキャッピングが施されているが、特にセラフでは最新のコンピューター工作機械の採用で、従来は配置が難しい曲面部分にも本木目パネルが装着できるようになった。エアバッグを内蔵する本革ステアリングのセンターパッド両脇にも豪奢なウッドトリムが配され、ドアの開閉に連動して、乗降しやすいように自動でチルト可動する。各種スイッチやメーターリング、エアコンルーバーなどには相変わらず上質のクロームメッキが施され、ロールス・ロイスならではの高級感を醸し出している。もちろん、前後シートをはじめとするインテリアのトリムは伝統のコノリー・ブラザーズ社製のレザーハイド張りで、バァ(玉杢)とストレートグレイン(正目)の寄せ木細工とされたウッドキャッピングが貼りめぐらされる。フロントのバックレスト背面にはピクニックテーブルを格納装備。Cピラー内側の左右には伝統のバニティミラーも装備される。
シルヴァー・シャドウ以降、モノコックボディを採るロールス・ロイス各モデルは、約20年近くもの長期にわたって改良されながら製造されるのが常とされたが、その系統を継ぐファイナルモデルたるシルヴァー・セラフは、このあとに解説する時代背景のもと、わずか5年という短命で終焉を迎えてしまう。その総生産台数は、1570台だったといわれる。