“シルキュイ・ド・ラ・サルト(ル・マン:サルト・サーキット)”での栄光はもちろんのこと、ブルックランズやT.T.(トゥーリスト・トロフィー)など、英国内で開催されるレースでも素晴らしい戦果を挙げたベントレーボーイズだが、彼らのベントレーへの愛は、モータースポーツ以外のステージでも存分に発揮されることになった。1930年3月、ウォルフ・バーナートがプライベート用の愛車であるベントレー6リッター“スピードシックス”のガーニイ&ナッティング製スポーツサルーンを駆って、1930年代のフランスにて運行されていた花形寝台特急“トラン・ブルー(ブルートレイン)”に賭けレースを挑んだのは、その最たる例と言えるだろう。そして、バーナートとスピードシックスは南仏カンヌ-ロンドンRACクラブ間のルートを、実に約4時間もの大差をつけて快勝して見せたのだ。このように、それぞれのメンバーが、愛用するクリクルウッド・ベントレーとともに様々な冒険を繰り広げたことで、彼らベントレーボーイズのカリスマ性はさらに高まった。
また、イギリス国内はもちろん、南仏リヴィエラのビーチやスキーリゾートでも賑やかなパーティを愛してやまなかったベントレーボーイズは、1927年のル・マン優勝の際には優勝マシンをロンドンのサヴォイ・ホテルの館内に持ち込んで座の主役とするという、当時としてはかなり大胆な楽しみ方もしていた。そんなベントレーボーイズたちのことだから、当然のことながらレディたちからの人気も大変なもので、1929年のル・マン優勝を記念するパーティの“座興”として行われた女性限定のくじ引きゲーム大会では、彼らにそれぞれの愛車ベントレーで次回のパーティ会場まで“エスコート”してもらう権利が商品として懸けられたという。ちなみに、この時に一位の“景品”とされたのは、ベントレーボーイズきってのハンサムボーイ、しかも独身貴族だったティム・バーキンが“オールド・ナンバー・ワン”とともにエスコートするというもの。二位はカーナンバー“9”の41/2リッターに、キッドストンないしはダンフィーのいずれかの組み合わせだったという。
しかし、すべてのパーティに終わりがあるように、ベントレーボーイズの輝かしい日々にも終焉のときが訪れることになった。しかも、それは意外なほどに早くやってきたのだ。1930年8月をもって、ベントレー社はモータースポーツ活動を休止。さらに翌’31年末をもってベントレー社がロールス・ロイス社の傘下に入ると、ベントレーボーイズを構成していた大部分のメンバーも本来の生業へと戻っていった。そしてリーダー格の一人で、かつては“不死身”と称されたグレン・キッドストンが航空機事故でこの世を去ったこともあって、ベントレーボーイズは、事実上の解散状態となってしまったのである。
しかし、前年の惨敗からル・マン24時間レースの制覇に格別の執念を示していたティム・バーキンは、その後もレース活動を継続させた。そして、1931年には苦渋の決断をもって愛機をアルファロメオ8C2300ル・マンにスイッチ、同じくベントレーボーイズのメンバーだったアール・ハウ卿とのコンビで自身にとって2度目にして最後となるル・マン制覇を達成した。ところが、そのバーキンも1933年トリポリ・グランプリで負った火傷にマラリアを併発させたことから、敗血症を発症。命を落としてしまうことになるのだ。ティムの最期を看取ったのは、医師であり盟友でもあったベンジャーフィールド博士であった。
一方、ロールス・ロイス傘下入りにともなってベントレー社の経営から手を引いたウォルフ・バーナート大尉は、モータースポーツへの興味も薄れたようで、自らステアリングを握ってレースに参加することはなくなっていた。しかし、のちにジャガーにて名エンジニアと称されることになるウォルター・ハッサンの協力を得て、旧ベントレー8リッターをベースに製作した“バーナート・ハッサン・スペシャル”などのモンスター的レーシングマシンを擁し、ベントレーボーイズのメンバーたちを乗せてブルックランズのレースに限ってはエントリーを続けていた。ところが、1932年末に開催された500マイルレースにて、バーナート所有のマシンに乗ったクライヴ・ダンフィーが不幸な事故死を遂げたこともあって、バーナートのレースに対する関心は、完全に失われてしまうことになったのである。
こうしてベントレーボーイズは、歴史の中の一ページと化した。しかし、彼らが鮮烈に駆け抜けた栄光の季節は、今なおベントレー・ファンを魅了してやまないのである。