ヴィンテージ後期を迎えた1920年代後半、高級車マーケットは群雄割拠のごとき活況を呈していた。ロールス・ロイス・ファンタムⅠの周囲では、ベントレー61/2リッターやデイムラー・ダブルシックスなどの英国車に加えて、イスパノ・スイザH6やイソッタ・フラスキーニ8A、そしてパッカードやキャディラックなど欧米両大陸のライバルが強力な包囲網を築き上げていたのだ。そんな状況のもと、急速に旧態化の目立ってきたファンタムⅠは、デビューからわずか3年後となる1929年9月に後継車たるファンタムⅡにモデルチェンジを果たすことになる。ファンタムⅡは、ロールス・ロイスが世界に誇る最高級車、“40/50HP”の第3世代にして、「戦前ファンタムの究極的モデル」とも称されているモデル。その基本的形態はファンタムⅠのアップ・トゥ・デート版というよりは、どちらかといえば“ベイビー・ロールス”こと20HPの拡大バージョンであったとされている。
そのエンジンはまたしても完全な新設計で、軽合金製のシリンダーヘッドは相変わらずのOHVながら、スカットル側から見て右手に吸気系、左手に排気系を持つクロスフローに改良されていた。ただし、シリンダーは20HPと同系統のモノブロック式ではなく、ファンタムⅠなどに近い2分割ブロック。そのブロックに、一体式のOHVヘッドを組み合わせていた。そのボア×ストロークは108.0×140.0mm、総排気量は7668ccである。
シャーシーは、シルヴァー・ゴースト時代から大きくは変わっていないファンタムⅠから大幅にアップ・トゥ・デートされ、ヴィンテージ末期の技術レベルから見れば充分に近代的なものとなっていた。まずは、フレームをキックアップすることでアンダースラング化して姿勢を低めるとともに、サスペンションも前後ともに半楕円リーフのライブアクスルとされた。また、リアホイールへのパワー伝達もシルヴァー・ゴースト以来のトルクチューブから、ハイポイドギアを採用したオチキスドライブへと改められたほか、車速に応じて自動的に減衰力が変化する画期的な可変式油圧ダンパーも装備されていた。さらに、シャーシーのあらゆるベアリングやブッシュには、ダッシュボード下に設置されたペダルを踏むことでグリスを給油する一括給油システムが採用されたのも、ファンタムⅡからである。また、シャーシーの前後には作りつけのジャッキも初めて装着された一方、イスパノ・スイザ特許のメカニカル式ブレーキサーボは、ファンタムⅠから踏襲されていた。
しかし、ファンタムⅠからの変更点の中でも最も重要なものとして挙げるべきは、やはり当時の名門コーチビルダーたちの手によって魅力的なボディの数々が与えられたことだろう。シャーシーの高さゆえに鈍重な雰囲気のボディが多かったファンタムに比べ、ファンタムⅡでは低くスリムなフレームを利して、極めてスマートなボディが架装されたのだ。また、ファンタムⅠまでの英国生産のフルサイズ・ロールス・ロイスは、すべてローリングシャーシー状態での販売で、顧客が独自にコーチビルダーに依頼してボディの架装を行うのが常識とされていたが、1932年以降のファンタムⅡでは“アメリカン・ロールス”のような準スタンダードボディが数種類用意されることになった。もちろん、いずれの準スタンダードボディも、バーカーやパークウォードなどの当時のロールス・ロイス用ボディのコーチワークでは既に確固たる実績を得ていた名門コーチビルダーがボディ製作を担当するものであった。ローリングシャーシー状態の販売価格は、ファンタムⅠから据え置きのSWB£1850/LWB£1900に設定。そして、準スタンダードボディを架装した際の完成車には、£2400-2600の価格が付けられていた。加えて注文主のリクエストによっては、完全なフルオーダーによるビスポークも可能であったことは言うまでもないだろう。
ファンタムⅡでは、長短2種のホイールベース(ロングが150インチ、ショートが144インチ)が用意される標準型のほかに、シャーシーをさらにローダウン化し、若干ながらパワーアップしたエンジンを搭載したグランドトゥアラー“コンティネンタル” も製作された。“コンティネンタル(Continental)”とは、読んで字のごとく“大陸の”という意味。つまり、ドーバー海峡の向こう側のヨーロッパ大陸で、当時建設が進められていた高速道路での走行も見越した高級GTカーである。こちらも最初の一台は、スタンダード指定のバーカー製スポーツサルーンである。このコンティネンタルにもショート&ロング2種のシャーシーが用意され、特にショートホイールベース版シャーシーに、スポーティなドロップヘッドクーペやスポーツサルーンが架装された ファンタムⅡコンティネンタル は、約1世紀に及ぶロールス・ロイスの歴史上でも最も魅力的なモデルの一つと言われて、21世紀を迎えた今なお、世界中のR-Rエンスージャストの敬愛を集めているのだ。
ファンタムⅡは、標準モデルとコンティネンタル合わせて1767台が製作された。
なお、シルヴァー・ゴーストおよびファンタムⅠを生産した北米スプリングフィールド工場は、ファンタムⅡの発表後も引き続き操業していたが、“アメリカン・ロールス”自体の需要低下からファンタムⅡへの代替わりは行われることはなく、代わりに英国ダービー工場にて172台のLHD仕様ファンタムⅡを製作、新大陸に輸出されることになった。
そして、自身にとってシルヴァー・ゴーストに匹敵する最高傑作の一つであるファンタムⅡのデビューと成功を見届けるかのように、長年闘病生活を続けていたロールス・ロイス社の開祖ヘンリー・ロイスは1933年4月22日に逝去することになった。享年70歳。長らく病と闘ってきた彼からすれば、天寿を全うしたにも等しい年齢だったと言えるかもしれない。そして、それ以降に生産されたファンタムⅡとベイビー・ロールスは、亡きロイスへの哀悼の意を表して(ロイス自身が美的観点から指示したとの説もあり)、エンブレムに入れられる“R-R”レターのカラーが、それまでの赤から黒へと改められることになったのである。そしてロイス亡き後のロールス・ロイス技術陣は、アーネスト・W.ヒーヴス卿が指揮することになった。
また、ファンタムⅡ時代末期となる1934年には、「Kneeling Lady(ひざまずいたフライングレディ)」と呼ばれる、別バージョンの「スピリット・オブ・エクスタシー」も選択が可能となった。これは、既にロールス・ロイスのシンボルとして親しまれていたラジエーターマスコット「フライングレディ」の作者である画家、チャールズ・サイクスが新たにデザインしたものである。「ニーリングレディ」の採用については、スポーティなボディに装着するためという説もあるが、現在では、右半身がほぼヌード状態である「フライングレディ」に対し、あるアラブの王侯貴族から宗教上の理由でクレームが入ったためというのが定説となっているようだ。もはや今となっては、いずれの説が正しいかは定かではないのだが、その後各国王侯など特別な階級に属するカスタマーがオーダーした車両のラジエーターには、ニーリングレディが取り付けられる例が多くなったとされている。