一方、もう一人の“R”である、フレデリック・ヘンリー・ロイス(Frederick Henry Royce:1863~1933年)は、チャールズ・ロールス男爵とは対照的なキャリアを持つ。1863年3月27日に、英国リンカーンシャー州の貧しい製粉業者の家に生まれたロイスは、父の死亡によりロンドンに移り住んだのちには、わずか9歳から働き始めねばならなかった。そして、本業のほかにも街角で新聞を売りつつ、苦学に苦学を重ねて一級の電気技術者となったという、まさにディケンズの小説「オリヴァー・ツイスト」のような貧困から身を起こした、立志伝的な人物であったのだ。
1884年、20歳の若さで自らの名を冠した電気機械メーカー“F.H.ロイス”社を、北部イングランドの工業都市であるマンチェスターに設立。生来の努力家にして完全主義者でもあった彼は、火花の散らないことから引火火災の可能性の低い安全な発電機とモーターを開発して成功を収めたほか、有史以来人力に頼っていた小型定置クレーンを、扱いやすい電動式に改良することで大きな成果を挙げていた。ところが、1902年に長年の過労が祟って体調を崩したことから、主治医に転地療養を勧められたロイスは、長期療養期間中の足としてフランス製のガソリンエンジン付き自動車ドコーヴィル(Decauville)を購入することとした。ところがこのドコーヴィルは、操作が面倒な上にたび重なる故障を起こし、なんど修理を重ねても実用とはなり得ないシロモノだったのだ。完全主義者のロイスが、強い不満を感じたのは想像に難くないところだ。他方、この時代まだ人件費の安かった米国やドイツの電気機械メーカーが、F.H.ロイス社の市場に強力なライバルとして台頭し始めていたことで、危機感を覚えたF.H.ロイス社の共同経営者であるアーネスト・クレアモントは、まったく新しいジャンルのビジネスに進出する必要性をロイスに提案してきた。そこで、ドゴーヴィルの信頼性には不満を持ちつつも、ガソリンエンジンを持つ自動車という新時代の乗り物の可能性については間違いなく認めていたヘンリー・ロイスは、自らの手によって新しいガソリン自動車を製作することを決意したのである。
その後のロイスの行動は速かった。1903年には自社の優秀な電気工を研究助手に抜擢して、マンチェスター市内クック・ストリートにあった自社工場にて自動車開発に着手。絶え間ない開発作業の結果、極めて短期間のうちに試作車の完成に至った。こうして1904年に完成した処女作ロイス10HPは、Fヘッドの直列2気筒2Lエンジンを前方に搭載し、前進3速のトランスミッションとプロペラシャフトを介して後輪を駆動するという、この時代としてもコンヴェンショナルな設計を持つ車となっていた。奇をてらわない堅実なつくりで運転しやすく、極めてスムーズかつ安定した走行性能を示し、実用面でも十分な信頼性を身上とする。つまりロイスの車作りの哲学は、処女作の時点で既に確立していたことになる。基本メカニズムについてはあくまで単純で信頼性の高い手法を取ったが、高圧コイルとバッテリーを組み合わせた最新のイグニッション、およびガバナーを備えた精巧なキャブレターなど、当時としては極めて進歩的な設計とされ、精緻なエンジンコントロールを可能としていた。そして同年4月1日に行われたロードテストでは、16.5mph(約26.5km/h)の速度で145マイル(約233km)の距離を走破してみせることになったのだ。
そして程なく、ロイスの作った10HPに着目する男が現れた。ロイス社のすぐ近くで工場を経営していた実業家、ヘンリー・エドマンズである。実は、彼はC.S.ロールス社に近い立場にあり、ロールス卿が優秀なイギリス車を求めていることを聞いていた。こうして、自動車史を変える二人の“R”の間で、歴史的な接触が図られることになるのである。
1904年5月、ヘンリー・ロイスはロンドン市内のさるホテルで、スチュアート・ロールスとクロード・ジョンソンに初対面を果たした。さっそくロイス10HPに試乗したロールスとジョンソンは、この車とロイスの優秀さにいたく感銘を受けたという。そして「ロイス車の販売を一手に引き受けたい」と申し出たロールス卿に対し、ロイスもこのオファーを快諾。以後ロールスとロイス、ジョンソンからなる“チーム”は、相携えて彼らが理想とする車の開発および発展に著しく寄与することになった。当初、両社は別会社のかたちで「ロールス・ロイス」(Rolls-Royce)ブランドの自動車の製造・販売を行うことになった。C.S.ロールス社とF.H.ロイス社自動車部門の合同で「ロールス・ロイス社(Rolls-Royce Ltd)」が設立され、名実ともに「ロールス・ロイス」となるのは1906年のことである。ロイス社でも実質的に経営を指揮していたアーネスト・クレアモントが、ジョンソン以上に裏方に徹するかたちでロールス・ロイス社でも経営実務にあたり、1907年から社長に就任。その地位は1921年に没するまで続いた。当初の生産は、マンチェスターのクック・ストリートにあるロイス工場にて行われていたが、生産が軌道に乗るに従って早々に手狭になってきたことから、1908年8月にイングランド・ダービーシャー州の小都市、ダービーに本拠を移すことになる。
ロイスは、その開祖たる2気筒10HPと、そのシリンダー数を増やす傍ら、シャーシーを延長した3気筒3Lの“15HP”と4気筒4L“20HP”、6気筒6L“30HP”の製作を、1904年末から本格的にスタートさせた。そして、これらパイオニア期のロールス・ロイスは当時の英国車の中でも性能的に群を抜いた存在として注目され、当時の自動車先進国であるフランスでも高く評価されるなど、大きな成功を収めるに至ったのだ。中でも4気筒20HPは1905年、チャールズ・ロールス本人を筆頭とするワークスドライバーのドライブでマン島ツーリストトロフィー(T.T.)レースに出場、健闘を見せるのだが、トランスミッションのトラブルに見舞われ2位に終わってしまう。しかしロールスと20HPは、翌’06年のT.T.レースでは雪辱を果たし、平均スピード39mph(63km/h)で見事優勝を獲得した。そして、これらの勝利がロールス・ロイスの名声をさらに高める結果となったのだ。
こうして、「パルテノン神殿」と称される世界一有名なラジエーターデザインによってシンボライズされるロールス・ロイスの高性能と信頼性は、その誕生から間もない時期から、早くも英国の裕福かつ進歩的なモータリストの心をつかみ始めてゆくのである。