第二次世界大戦の開戦直前に、軍需を満たすため本社工場を旧ダービーからマンチェスター南西の田舎町クルーに本拠を移していたロールス・ロイス/ベントレーには、「外貨獲得」という国家的命題が課されていた。時のチャーチル首相が、輸出に回すべきスコッチ・ウイスキーを愛飲していたことが国会でも大真面目に糾弾された時代のことである。外貨、特に世界通貨となりつつあった米ドルの獲得は、当時のイギリスにとっては、まさに死活問題となっていたのだ。しかし、民主化および平等化が進んだ戦後のご時世に於いて、超高級サルーンやリムジーン用のローリングシャーシーを供給し、各コーチワーカーにボディを製作させるという伝統的な手法に依存することは、もはや時代が許さなくなってしまっていた。中でも、戦後名実ともに世界最大のマーケットとなった新大陸、アメリカの潜在的カスタマーたちがロールス・ロイス/ベントレーに求めていたのは、自らステアリングを握ってドライブを楽しめる、ちょっとスポーティなパーソナルサルーンであった。そんなリクエストに応えるかたちで1946年5月に発売されたのが、戦後のロールス・ロイス社が初めて生産することになった完全戦後型のニューモデル、ベントレー“マークⅥ”である。ちなみに、発表の時期はR-Rシルヴァー・レイスのほうが一ヵ月ほど早かったのだが、その段階でのシルヴァー・レイスは、未だ概要の一部とラフ・スケッチが公表されただけの暫定的なデビューだったので、本書ではマークⅥを戦後型の開祖として解説を進めたい。
「幻のダービー・ベントレー」と言われた戦前のファイナルモデル、マークⅤの後継車にもあたるこのマークⅥ。開発に際して現場の陣頭指揮を執ったのは、ヘンリー・ロイス逝去ののちロールス・ロイス社技術陣を率いてきたアーネスト・W.ヒーヴス卿の後継者として指名され、マークⅥの発売と同じ1946年から、チーフエンジニアに就任することが決定していたW.A.ロボサムであった。結果としてロボサムの第一作となったマークⅥは、翌1947年に正式発売されることになるR-Rシルヴァー・レイス用として開発されてきた新世代のシャーシーフレーム(ショートホイールベース版で127インチ)を120インチまで短縮し、同じくシルヴァー・レイス用と基本的には同型となる直列6気筒Fヘッド(吸気がOHV/排気がサイドバルブ)、4257ccのエンジンを搭載したモデルと言って良いだろう。
そのパワーユニットは、戦前型41/4リッター/マークⅤ用の直列6気筒4257ccユニットのそれと同じボア×ストローク/排気量を持つが、その実は事実上の新設計エンジン。ロールス・ロイス社が、第二次大戦の開戦直前となる’38年に軍用車両のために設計した“B60”型エンジン直系のものである。この新型ユニットでは、エンジン全体の剛性アップのため、およびエンジン全長を延ばすことなくブロック内に冷却水路を設けるため、さらには7個のメインベアリングのサポートを確たるものとするため、ロールス・ロイス/ベントレー用のパワーユニットとしては初めて、シリンダーヘッドとクランクケースが一体型へと近代化されることになった。また、戦前のダービー・ベントレー以来の慣例に従って、キャブレターは二基のSU社製サイドドラフトとされたが、北米マーケット向けのLHD仕様は、R-Rと同じストロンバーグ・シングルに格下げされていた。またトランスミッションについても、イギリス本国およびコモンウェルス(英連邦)国向けのRHD仕様はコックピットの右端にシフトレバーを置くマニュアル4速フロア(2速以上はシンクロメッシュ付き)とされたが、USマーケット向けのLHD仕様は、当時のアメリカ人カスタマーたちの嗜好に合わせて、リモートコントロールのコラムシフトへと変更されていた。
フロントのサスペンションは、戦前型のマークⅤと同じくダブルウィッシュボーン+コイルスプリングだが、こちらも完全な戦後設計に改められた。R-RファンタムⅢに端を発する戦前型(パッカード/GM式)が、後退角のついたダブルウィッシュボーンに、水平の筒内に入れられた同軸のコイルスプリング&油圧ダンパーが組み合わされていたのに対して、マークⅥ以降の戦後型(R-Rシルヴァー・レイスなど)は、露出したコイルスプリングが垂直に取り付けられる一般的なレイアウトとされていたのだ。他方、リアサスペンションは当時としてもコンヴェンショナルなリーフ・リジッド。戦前型の設計にほぼ近いものだったが、こちらはロールス・ロイス/ベントレーの美風が生かされている。表面をショットブラストで強化したリーフスプリングを、ペダルショットで充填できるグリス封入式のレザーブーツに収めるという、いかにもR-Rらしい、懇切丁寧な手法が護持されていた。他方ブレーキシステムについては、ロールス・ロイス/ベントレーとしては初めて、前輪のみロッキード製システムを使用する油圧式としたが、後輪はガーリング製コンポーネンツによる機械式が維持された。もちろん、サーボシステムについては1925年のファンタムⅠ以来の、イスパノ・スイザ式メカニカルサーボが踏襲されていた。また、キャビンスペースの拡大を図るために、エンジンのマウント位置を大幅に前進。フロント車軸上にあたる位置にマウントされることになった。このデバイスによって、ホイールベースは戦前型マークⅤよりも4インチ(約10cm)も短縮されていたが、開発時の目論見どおり乗員のためのスペース、特に室内長は同等以上のものが確保されることになったのである。
しかし、ベントレー・マークⅥに於ける最大のトピックは、ベントレーとしては史上初めて、クルーの自社工場内にて組み立てられるスティール製のスタンダードボディを持つことを挙げねばなるまい。裏を返して言えば、戦前のベントレーはすべてコーチビルダー製のビスポークないしは準スタンダードのボディを持つのが、創業以来の伝統的な慣例だったのだ。この決定が下されたのは1944年のこと。当時、技術部門責任者たるE.W.ヒーヴスのもとで戦後型モデルのコンセプト構築を任されていたロボサム自身の判断であった。ロールス・ロイス社はこのモデルを生産するために、サセックス州カウリーに本拠を置く大手の自動車用鋼板メーカー“プレスド・スティール”社から、マークⅥ用のスティールパネルの供給を受ける契約を結ぶことになる。それまでボディの生産については、すべて専門コーチビルダーに任せていたロールス・ロイス/ベントレーにとって、実質的な接点の無かったプレスド・スティール社との橋渡し役を引き受けてくれたのは、ロールス・ロイス社が生産を請け負っていた航空機用ジェットエンジン(戦闘機“グロスター・ミーティア”用として知られる)のもともとの開発者であるローヴァー社の会長、スペンサー・ウィルクスである。そして、ロールス・ロイス社クルー本社工場の敷地内には、新たにボディの組み立てやインテリア用のレザーの縫製、同じくインテリア用のウッドワーク、そしてボディのペイントなどの作業を行う専用のファクトリーが設けられることになった。
こうして、マークⅥに架装されることになった総スティール製のスタンダード・サルーンボディは、第二次大戦の開戦直前に11台のみが生産されたマークⅤをベースに、ロールス・ロイス社とフランスのカロジエ(コーチビルダー)、ヴァン・ヴァーレンとのコラボレーションで製作した先進的なプロトタイプ“ベントレー・コーニッシュ”をイメージ上のシンボルとして、ベントレー伝統のラジエーターグリルと組み合わせるなど、より現実的なデザインとしたものと言えるだろう。このボディデザインを担当したのは、第二次大戦前からロールス・ロイス/ベントレーのボディを数多く手掛けてきたコーチビルダー、ガーニー・ナッティングの出身で、1944年に移籍したのちはロールス・ロイス社の主任スタイリストとして力をふるうことになったジョン・ブラッチリーとされている。ただし戦前以来のベントレーの伝統に従って、スタンダードでは満足できない顧客のリクエストによっては、ローリングシャーシー状態での購入も依然として可能とされており、コーチビルドボディを架装したマークⅥ(およびのちのタイプR)も少数ながら製作されることになった。特に、戦前の1938年をもってR-R社の傘下に収まっていた名門コーチビルダーのパークウォード社は、比較的多数のスペシャル・マークⅥの架装を担当していた。
また、ベントレー・マークⅥから派出したモデルとして、エンジンをシングルキャブ化するなどのデチューンを施して、R-R伝統のパルテノン神殿型グリルを組み合わせた姉妹車“ロールス・ロイス・シルヴァー・ドーン”も登場。北米マーケットを主目的として、1949年から同じクルー工場にて生産されることになった。そして1951年には、直列6気筒Fヘッドエンジンをボアの拡大によって4566ccまでスケールアップしたのち、翌’52年にはトランクスペースを拡大するためにテールエンドを延長、形状もより流麗にモダナイズするなどのマイナーチェンジを受けるとともに、ネーミングも新たに“Rタイプ(マークⅦRタイプとする文献も存在した)”へと改名されることになった。さらには、Rタイプの誕生と時を同じくして、GM式のハイドラマティック4速オートマティックがオプションで選べるようになった。そしてこのATは、翌1953年には輸出向けLHD仕様にスタンダード化。さらに生産最終年たる1954年には、RHD仕様でもスタンダードとされるに至ったのである。
結局、1946年から’52年まで生産されたベントレー・マークⅥは5052台(その内1012台がコーチビルドボディ)、そしてRタイプ・サルーンは’55年に生産を終えるまでに2320台(その内303台がコーチビルドボディ)が新生クルー工場をライン・オフするに至った。この生産台数は、戦前モデルのロールス・ロイス/ベントレーから比較すれば、まさに桁違いとも言うべき数値。計8年に及ぶ生産期間を考慮に入れたとしても、充分な“クリーンヒット”と断ずるに相応しい成功作となったのである。