第一次世界大戦の終結後も生産が継続され、世界最高級車としての地位を確固たるものとした40/50HP“シルヴァー・ゴースト。1908年以降、ロールス・ロイス社の商品ラインナップは、このモデル一種のみの体制となっていたのは先にも述べたとおりである。ところが、第一次世界大戦による過大な出費とその後のインフレで、ヨーロッパ各国の経済は1920年をピークに大きな後退を強いられており、ローリングシャーシー価格で£1850にも達するシルヴァー・ゴーストの市場は急速に縮小していた。しかも市場の縮小の一方で、ロールス・ロイスのダービー工場は大戦中の軍需に応えるべく生産体制を格段に拡大していたため、より量産を見込める小型モデルの開発が急務となっていたのだ。また、当時急速に増えつつあったオーナードライバーたちにとっては、シルヴァー・ゴーストのサイズが過大であるとする評価があったのも、小型ロールス・ロイス待望論に拍車をかけることになった。このような状況のもとに1922年の秋にデビューしたのが、のちにロールス・ロイス社自動車部門の主力モデルの一端を担うことになる“ベイビー・ロールス”の開祖、20HPである。
クォリティのためなら“金に糸目はつけない”40/50HP系に対し、その半分のコストで製作することを目標としていた20HPだが、開発のスタート時には航空機用エンジンに端を発する直列6気筒DOHCユニットを搭載するというプロジェクトが進行しており、実際に“ゴスホークⅠ”と呼ばれる試作ユニットも製作されている。もしも、このDOHCユニットの搭載が実現していたならば、あるいはベントレーやヴォクスホール、サンビームなど当時のイギリスを代表する高級ヴィンテージ・スポーツカーの強力なライバルに成長していた可能性も充分にあっただろう。しかし、ゴスホークⅠ試作エンジンがバルブ駆動ギアトレーンの騒音やオイル潤滑などの問題で、ヘンリー・ロイス自身が定めた厳しい基準を満たせなかったこと、加えて不可避的なコストの制約もあってDOHCプロジェクトは中座。結局、コンヴェンショナルなプッシュロッド式OHVが採用されることになった。
生産型20HPの6気筒OHVユニットは、シルヴァー・ゴーストの2分割シリンダーブロック+非分離シリンダーヘッドに対して、当時としてはややモダーンな、モノブロック式シリンダー+分離式ヘッドとなっていた。ボア×ストロークは76.2×114.3mmで、総排気量は3127cc。圧縮比は4.6:1で、当然ながらロールス・ロイス自社製のキャブレターが組み合わせられる。そして、例によって未公表の最高出力は約50Hpと見込まれていた。これは、2倍以上の排気量を持つシルヴァー・ゴースト(後期型の推定値は約65Hp)にも近いもので、当時の自動車専門誌のテストデータによると、オープントゥアラーやファブリック張りの“ウェイマン”スポーツサルーンなどの軽量ボディを組み合わせた車両ならば、62mph(約100km/h)の最高速をマークしたという。しかも、当時の高級車の資質としては最重要視されていたというフレキシビリティについても優秀で、3速のトップギアのまま4mphという、まるで歩くようなスピードでも走行することもできた。
シャーシーは、シルヴァー・ゴーストの基本レイアウトを踏襲した上で、ホイールベースを129インチに縮小したものである。もちろん、ロールス・ロイスのクォリティレベルは20HPでも堅持され、あらゆる部材に最上質のマテリアルが贅沢に投入された上に、工作精度やフィニッシュも最高のものであることは、シルヴァーゴーストとまったく変わらなかった。
こうして、ロールス・ロイスのロワーレンジを担うことになった20HPは、ローリングシャーシーで£1100、準スタンダードボディとして指定されたバーカー製オープントゥアラーが架装された状態でも£1590と、当時の常識では充分以上に高価な車となったが、それでもシルヴァー・ゴーストに比べれば比較的リーズナブルな価格設定が功を奏して、ロールス・ロイス社側がターゲットユーザーと見なしていた高級オーナードライバー層を中心に、好意的に受け容れられることになった。
1925年にはマイナーチェンジを受け、保守的なR-Rユーザーにはやや不評だった3速トランスミッションは4速に変更されたほか、シフトレバーもセンターからロールス・ロイス本来の慣例に従った右側に移された。また同時に、初期型では後2輪のみに装着されていたブレーキが、前輪にも装着されることになった。そして20HPは1929年までの7年間に、完全なハンドメイドであった当時のロールス・ロイス単一モデルとしては、大ヒットと言っても良い2940台が生産されたのである。