ロールス・ロイス・ファンタムⅢは、1935年10月に発表された。ロールス・ロイスが世界に誇る最高級車“40/50HP”の第4世代にして最後のモデルである。大恐慌後、特にアメリカの高級車界ではキャディラックの“V12”/“V16”やパッカードの“ツインシックス”などの多気筒エンジンが大流行していた。ハイドロリックのエンジンマウントが普及する以前には、騒音と振動を高級車に相応しいレベルに抑えるためには、マルチシリンダー化が最良の方策と信じられていたのだ。他方、ヨーロッパでも宿命のライバルたるイスパノ・スイザがV12を搭載する超高級モデル“J12”を製作したほか、同じイギリスのデイムラーも“ダブルシックス”、そして今やR-R傘下となったベントレーのライバルたるスポーツカーメーカー、ラゴンダもW.O.ベントレー本人が設計を手掛けたV12モデルを発表していたが、既に世界最高級車の名声を得ていたロールス・ロイスは、その“多気筒ブーム”に慎重な姿勢を見せていた。そして、そんな風潮が鎮静化を迎えつつあった時期に、ロールス・ロイスはあえてマルチシリンダー、ファンタムⅢを世に問うたのである。
ロールス・ロイスは、決して多気筒エンジンの開発に手間取っていたわけではない。同社は世界最高の航空エンジンメーカーの一つでもあり、V12エンジンについては“イーグル”や“ケストレル”、そして傑作“マーリン”などの航空エンジンでの豊富な経験があった。そして、既にそのスムーズネスと静粛性には確たる成果を出していたのである。とはいえ、これはしばしば誤解されることなのだが、ファンタムⅢのV12エンジンは航空エンジンをそのまま流用したものではない。同時期に開発され、戦闘機“スーパーマリン・スピットファイア”のパワーユニットとしても有名になったR-R製航空エンジン“マーリン”やそれを戦車用に転用した“ミーティア”は、バルブ駆動型式がSOHCである上に、約27000ccという遥かに大きな排気量を持つまったくの別物。航空エンジン譲りのテクノロジーを導入しているものの、ファンタムⅢ用ユニットはあくまで自動車専用の設計なのである。
ファンタムⅢのエンジンは、60度V型12気筒OHVで、シリンダーヘッドはアルミ軽合金製で、ブロックは鋳鉄+ウェットライナーとされた。バルブ駆動はVバンク中央に置かれた1本のカムシャフトから、油圧タペットとプッシュロッドを介して行われる、つまりOHVであった。ボア×ストロークは82.5×114.3mm、総排気量は7338cc。慣例に従ってパワーは公表されなかったが、発表から1938年頃までに生産された前期型では約160Hp、それ以降に生産された後期型では約180Hpと推定される。また、前述の油圧タペットは当時としては非常に画期的なものだったのだが、ロイス亡き後も「石橋を叩いて渡る」スタンスは不変だったロールス・ロイスにしては珍しく、その採用はやや時期尚早だったようで、まだ品質が高くなかった当時のオイルとの組み合わせでは、しばしばカムやタペットに異常磨耗を発生させてしまったという。そこで後期型では、コンヴェンショナルなソリッドタペットに改変された上に、前期型ファンタムⅢの大部分もロールス・ロイス側が行ったリコールによって回収されて、ソリッドタペットにアップ・トゥ・デートが行われた。
発表当時の自動車専門誌はファンタムⅢの圧倒的な静粛性とスムーズネスを、「エンジンを吹かしてもクーリングファンの作動音しか聴こえない」という賛辞をもって評したという。そして、「エンジンの始動時に、ボンネットに立ててあったコインが倒れなかった」あるいは「リアシートに座る主人がエンジンの始動を指示したら、ショーファーが『エンジンは既に回っております』と応えた」など、シルヴァーゴースト時代から語り継がれてきた数々の「ロールス・ロイス伝説」は、このファンタムⅢの時代に頂点を迎えることになるのだ。
一方、フレームはロールス・ロイスとしては初めて、閉断面のサイドレールをXメンバーで組んだ、ポスト・ヴィンテージ・スタイルのラダーフレームとされていた。しかし、V12エンジンと並ぶファンタムⅢのテクノロジー的トピックは、前輪に独立懸架(IFS)を採用したことであろう。この英断によって、乗り心地はポスト・ヴィンテージ期の技術水準に相応しいソフトなものとなる傍らで、当時のプレステッジサルーン/リムジーンとしては極めて良好なハンドリングも実現していたのだ。
既に初代チーフエンジニアであるヘンリー・ロイスを失い、R-R生え抜きのエンジニア、E.W.ヒーヴスが研究・開発の指揮を執っていたロールス・ロイス技術陣だが、同社にとって初の試みとなる前輪独立懸架を持つファンタムⅢの開発にあたっては、極めて“ロイス的”な手法を採った。イタリアのランチアが得意としたスライディングピラー式や、北米のGM各モデルやパッカード120系のニーアクション型ダブルウィッシュボーンなど、当時既に発表されて技術的に高い評価を得ていた前輪独立懸架を大々的に研究して、ファンタムⅢ用サスペンションの規範にすることとしたのだ。そして彼らが手本に選んだのは、パッカードやGMが採用していたダブルウィッシュボーン式であった。もちろん、ロールス・ロイス流に徹底的な改良を加えたのは言うまでもないことで、コイルスプリングとその内部に同軸に収められた油圧ダンパーは、それまでのリジッド時代にグリスを詰めた革製のブーツ内に半楕円リーフスプリングを収めたように、金属製のカバー内にグリスを封入して収めるという、恐ろしく入念なつくりとなっていた。
他方この前輪独立懸架の採用は、同時にV12エンジンを前車軸直後まで前進させることによってキャビンスペースが格段に拡大されたほか、プロポーションも大いに近代化されることになったのだが、あくまでも美的観点から見るなら、ラジエーターグリルが格段に後退したスマートなノーズを持つファンタムⅡをして、より美しいとする識者が多いのも事実である。それでも、ファンタムⅢの優秀性は圧倒的なものであり、当時の自動車メディアや超一級のコニサー揃ぞろいのR-Rエンスージァストたちからも極めて高い評価を得るに至ったのである。デビュー当初の販売価格は、ファンタムⅡから据え置きのSWB£1850に設定されるが、のちに£1900に値上げされた。また、スポーツトゥアラーからプルマン・リムジーンに至る8タイプの準スタンダードボディを架装した際の完成車には、£2587-2865の価格が付けられていた。
しかし、ファンタムⅢの生産期間はその評価の高さとは裏腹に短いものだった。’39年に第二次大戦の開戦によって高級車市場が休眠状態に入ったことに加え、軍需によりロールス・ロイス社が航空エンジン部門に集中せざるを得なくなったことから、生産中止を余儀なくされてしまうのだ。そしてそれは、伝統の40/50HPの終焉も意味していたのである。
結局、ファンタムⅢの総生産台数はわずか715台に過ぎなかった。