ロールス・ロイスによる電撃的な買収以後、創業以来ベントレーの故郷となってきたクリクルウッド工場からベントレー車が生み出されることは二度となかった。クリクルウッド工場は早々に売却され、以後ベントレー車の生産はすべてダービーのロールス・ロイス工場にて行われることになった。また、クリクルウッド工場内に残されていたW.O.時代のベントレー車用のコンポーネンツもすべてダービー工場に運ばれ、若干数(11台と推測される)の完成車として組み立てられることで、W.O.が自ら手掛けた旧ベントレーの名作たちは、完全に過去のものとなってしまったのだ。
そして、ダービー工場で生産される新時代のベントレー、いわゆる“ダービー・ベントレー”のファーストモデルとなったのが、R-R傘下入りの翌年となる1932年にデビューした31/2リッターである。その内容は、同時期の“ベイビー・ロールス”、20/25HP用直列6気筒OHV3680ccユニット(ボア82.6×ストローク114.3mm)をベースにチューニングしたエンジンを、同じく20/25HPベースのシャーシーに搭載したモデルである。しかし、しばしば誤解されるようなベイビー・ロールスの軽チューン版などではなく、そのモディファイ内容は本格的なもの。例えばエンジンは20/25HP用のブロックは流用するものの、ヘッドはクロスフロー・レイアウトを採るまったくの別物。キャブレターもツイン化されたことで、その実質的ポテンシャルは大幅に向上していた。また、シャーシーについても格段に低められ、ロードホールディングやハンドリングも飛躍的な向上を見た。
とはいえ、誕生に至る経緯を勘案すればおわかりだろうが、ダービー・ベントレーは、世界に冠たるスーパースポーツであったクリクルウッド・ベントレーと比較すれば、大人しいトゥアラー、ひいき目に見てもグランドトゥアラー程度と言わざるを得ないモデルとなっていた。そして、ロールス・ロイスの傘下に於いてベントレーの栄光を伝承するのは、スポーティな意匠を持つラジエーターグリルと、それまでに勝ち得た世界的な名声だけになってしまったのだ。特に31/2リッターは、絶対的なキャパシティの小ささゆえに、発表当時の各メディアからは「アンダーパワー」との評価を受けることもあったという。
しかし、ダービー・ベントレーはW.O.時代にもなかった新しい魅力を得ていた。1920年代のスポーツカーレースにて覇権を競った宿敵エットーレ・ブガッティをして、「ムッシュウ・ベントレーは世界一速いトラックを作った」という悔し紛れの捨てゼリフを言わしめたように、W.O.時代のベントレーの本質はあくまでスパルタンかつ豪快なリアルスポーツ。ブガッティのようなエレガントなボディを載せることなど二の次とされていたのだが、ダービー時代になると、ヴァンデン・プラやパークウォード、バーカー、フリーストーン&ウェッブなどの英国内のコーチビルダーはもちろん、ヴァン・ヴァーレンや果てはフィゴニ・エ・ファラシに至る当時のヨーロッパを代表する名門コーチビルダーたちが、競うように美しく豪奢なボディを架装。さらに、これも名門コーチビルダーによる準スタンダードボディについても、モダーンかつ魅力的なものが用意された。そして、かつては質実剛健な印象の強かったベントレーの世界に、新たに“エレガンス”という概念が加えられたのだ。つまり、素晴らしい動力性能と情熱を、最上の仕立てのスーツに隠す。そんな、現代にも通じるベントレーの比類なきキャラクターを会得したのは、実はこのダービー・ベントレー時代のことだったのである。こうして新たな魅力の獲得に成功したベントレー31/2リッターは、1936年までの約4年間に1477台が製作されることになった。
さらに、1936年になるとエンジンを4257ccに拡大し、W.O.時代の傑作モデル“41/2Litre”を連想させるネーミング、“41/4Litre”を冠することになる。41/4リッターは、“ベイビー・ロールス”こと25/30HP用OHV4257ccユニットをベースに、31/2リッターと同じくヘッドの変更やツイン・キャブレターなどのチューニングを加えて、同じく25/30HP用のショートシャーシーを低く固めたスポーツシャシーに搭載したモデルとなった。