Post War: 第二次大戦 後篇
チャプター15: R-R傘下ベントレーの最高傑作
ベントレー・マークⅥ/Rタイプは、たしかに当時の高級サルーンとしては高性能かつ魅力的だったと言って良かろう。もちろん、純粋なビジネスの面でも十二分の成功を収めたマークⅥ/Rタイプは、戦後ベントレーの位置付けを決定した功労者となったのだ。しかしベントレーといえば、開祖W.O.ベントレーが自ら率いた「クリクルウッド・ベントレー」の時代から、ル・マン24時間レースに於いて計5勝を果たした真のスーパースポーツカーとして、世界中のエンスージアストの憧れを集めてきた名門中の名門である。そして、1931年にロールス・ロイスと合併したのちの“ダービー・ベントレー”時代(“ダービー”はR-Rの旧工場所在地)にも、「サイレント・スポーツカー」という象徴的な称号とともに、当時のモータリストから高性能グランドトゥアラーとして、高い評価を得てきたブランドでもあったのは、これまでにも解説してきたとおりである。それゆえに、戦後の飛躍的な経済復興にともなって、往時の繁栄を取り戻しつつあった高級車マーケットに於いては、名門ベントレーが製作する唯一のモデルがスタンダード・スティール・サルーンであるという歴然とした事実が、少々寂しくも思われるようになっていたのは間違いのないところなのだ。
そこで、戦前のベントレーの栄光を復活させるべくして開発されたのがRタイプ・コンティネンタルである。クルーのエンジニア、アイヴァン・エヴァーデンらの提案で1951年初頭に開発プロジェクトが立ち上がった当初は“コーニッシュⅡ”と呼ばれていたという。そのパワーユニットは、’51年に排気量を4.5リッターへと拡大した後期型マークⅥをベースに、大径キャブレターの装着や圧縮比のアップ、そして専用のエグゾーストマニフォールドなどの専用チューンアップを施すこととされていた。マキシマムパワーについては「必要にして充分」としか表記しない当時のR-R/ベントレーの慣例に従って未公表だったのだが、実際にはマークⅥ/Rタイプ・サルーンの約140Hpから160Hp以上までスープアップされたと推定されている。その一方で、シャーシーは1952年から発売予定のRタイプ・サルーンと共用。つまり、実質的にはマークⅥ時代と大差のないものであった。
開発に当たったのは、マークⅥ/Rタイプの際と同じく、W.A.ロボサムの率いるR-R社開発チーム。もちろんエヴァーデンは、その主要メンバーとして大活躍した。’51年8月にはH.J.マリナー製のボディを持つプロトタイプを製作、即座にロードテストに移された。この試作車は、[OLG 490]という登録プレートから、のちに“Olga(オルガ)”の愛称で呼ばれることになるのだが、生産型に移行するにあたって、ルーフを1インチ低めるとともにオルガでは2分割だったウィンドスクリーンが一枚の曲面ガラスに改められた。さらに1952年に入ると、R-R社上層部の判断により“コーニッシュⅡ”の車名から、もともとは戦前のR-RファンタムⅡのツーリングモデルに命名されていた“コンティネンタル”に改称された。つまり、結果としてコーニッシュとコンティネンタルの名が逆転してしまったことになる。そしてRタイプ・コンティネンタルは、Rタイプ・サルーンの発売から先立つこと約4ヶ月、1952年2月から生産が開始されることになったのである。
こうして正式デビューを迎えたRタイプ・コンティネンタルは、ベントレーの栄光を取り戻すには充分なモデルであった。エンジンの出力アップに加えて、4速マニュアル・トランスミッションのファイナルレシオを3.727から3.077に速めたこと、そしてRタイプ・サルーンより約240kgも軽量な上に、空力的な総アルミボディとの相乗効果もあって、英「AUTOCAR」誌のロードテストでは、当時としては充分にスポーツカーの領域に入る115.4mph(約185km/h)のマキシマムをマークしたという。このスピードは、当時で言えばジャガーXK120やアストンマーティンDB2のような第一級のスポーツカーにも充分に匹敵しうるもの。一見したところでは豪奢なプレステッジカーながら、Rタイプ・コンティネンタルのパフォーマンスは真のスポーツカー、あるいはグランドトゥアラーと呼ばれるに相応しいレベルだったのだ。また、’54年にはオートマティック・トランスミッションの選択が可能となった上に、その直後にはエンジンも4887ccまで拡大されることになる。
‘55年までに208台が製作されたとされるRタイプ・コンティネンタルのうち、あとで述べる15台の例外を除いては、H.J.マリナー製の最も有名な、そして最も魅力的と言われる総アルミニウムのプレーンバッククーペが架装された。このクーペボディは、全長5mにもなんなんとする堂々たるサイズを誇るが、全身にみなぎる緊張感で実際よりも遥かにコンパクトに見せる一方、グラマラスな優美さにも溢れる、たぐい稀な“美”を実現していた。H.J.マリナーといえば、1854年に創立した名門。現代ではベントレーの一部門としてその名を残し、最新型ベントレー各モデルに設定されたスペシャルオーダープログラムの名称として、今なおベントレーのスペシャル性を代表するビッグネームなのだが、当時はまだパークウォードのウィルズデンと同じロンドン北郊の町、チズウィックに本拠を構える独立コーチビルダーであった。そして、H.J.マリナーの評価を絶対的なものとした最大のファクターこそ、このRタイプ・コンティネンタルの成功だったと言うべきだろう。
ただしこのプレーンバッククーペは、架装こそH.J.マリナーで行われたが、デザインワーク自体は、ガーニー・ナッティングから移籍してきたロールス・ロイス社の主任スタイリスト、ジョン・ブラッチリーが行ったものと伝えられている。また、もともとはデザイナーとしての役割も兼任し、戦前の1939年に製作された特装車“ベントレー・コーニッシュ”のデザインワークにも関わったとされるエヴァーデンのアイデアも全面的に取り入れられていたという。そのスタイリングは、前述の“コーニッシュ”や、これも戦前の1938年に、パリ在住のギリシャ人実業家、A.M.エンブリコスの注文によって、フランス人のアマチュア空力研究家、ジョルジュ・プーランがデザイン、そしてカロジエ・プールトー社が“ダービー・ベントレー”41/4リッター(シャーシーNo.B27LE)に架装した“エンブリコス・クーペ”の影響を大きく受けたとされている。この“エンブリコス・クーペ”は既に12年落ちの旧式ながら、戦後の1950年にル・マン24時間レースにて5位入賞を果たすという快挙によって、当時のベントレーとそのファンたちにとっては、ある種のシンボル的存在となっていたのだ。しかしその一方で、1949-51年にかけて、ピニンファリーナがマークⅥ/R-Rシルヴァー・ドーンをベースにワン・オフ製作した一連のクーペ/コンヴァーティブル・ボディの影響も否めない、とする歴史家が多数存在するのも事実である。
一方、前述した“少数の例外”としてはパークウォードが6台、フランスのフラネイが5台、スイスのグラバーが3台、そしてフィアット1100/103TVクーペに似たルーフ形状を持つピニンファリーナ製クーペが1台など、バラエティに富んだボディが製作されている。これら名門コーチビルダーが手がけたボディは、依然として手叩きのアルミパネルによるハンドメイドで、インテリアのマテリアルや施されたフィニッシュのレベルも、同時期のスタンダード・サルーンのそれを遥かに上回るものとされていた。つまり、一応の制式ボディであるH.J.マリナー製クーペを含めて、すべてのコンティネンタルRは事実上のビスポークに近いものであったのだ。したがって、オーダー主の細かい注文に応えてハンドメイドされることから、エクステリア&インテリアの仕立てやコーディネートについてはかなりの自由度が与えられており、厳密に言えば、まったく同じ仕様の車両は一台として存在しないとまで言われていた。もちろん、新車時の販売価格は当時のRタイプ・サルーンの£4824に対して約1.6倍に相当する£7608と極めて高価なものになっていたが、それでもこれらのコーチワークボディを持つRタイプ・コンティネンタルは、1950年代の北米およびヨーロッパの両大陸のハイウェイにて、まさに王者のごとく君臨したのである。
このサイトではwebサイトのサービス向上や改善、ご利用者の統計作成のためにCookieなどを使用しております (詳細)
ページを遷移するかこのバナーを閉じることにより、Cookieの設定や使用に同意いただいたものとします