1904年の創業以来、ロールス・ロイスにとっては初めての経験となった完全自社製のスティール・ボディを持つスタンダード・サルーン、シルヴァー・ドーンに代わるモデルとして1955年4月に発表された“シルヴァー・クラウド”は、前任モデルと同じく北米マーケットに重点を置いて開発されたスタンダード・スティール・サルーン。ほぼ一ヵ月後には、従来のRタイプに代わるベントレー版の“Sタイプ”もデビューを果たすことになった。
シルヴァー・ドーン/ベントレーRタイプは、商業的には満足すべき成果が得られたものの、もとをただせば戦前型の設計であるレイスのレイアウトをベースに徹底的なリファインを加えつつ、小型化およびコストダウンを図ったものであり、1950年代半ばの常識では旧態化が隠しきれない状況となっていた。また、当時のロールス・ロイス社の製作するすべての車は、Fヘッド直列6気筒4.9リッターエンジンを持っていたが、それがいかにスムーズかつ静粛であったとしても、現代・過去を問わず8気筒を好むアメリカ人顧客の嗜好には物足りないものと映ってしまうのも、これまた残念ながらやむを得ないところであった。特に、当時としては超モダーンなスタイリングと、これまたモダーンかつハイパワーの6リッター超級V8エンジンを持つキャデラックやリンカーンなどの高級車が、R-R/ベントレーよりも遥かに安価な投資で購入できるアメリカに於いて、シルヴァー・ドーンとRタイプの商品力に深刻な翳りが見え始めていたのは、もはや誰の目にも明らかな事実になっていた。この時期、イギリス輸出産業の“尖兵”として外貨獲得の至上命令を課されていたロールス・ロイス社にとってすれば、少なくとも8気筒以上の大排気量ユニットを持つ上に、モダーンなスタイリングのニューカマーを誕生させることは、まさに会社の存亡をも左右しかねない絶対的な急務となっていたのだ。
シルヴァー・クラウド/Sタイプ開発の初期段階を指揮したのは、戦後のR-Rテクノロジーを具現化した功労者たるW.A.ロボサム。そして、ロボサムがソールズベリーのディーゼルエンジン工場の操業立ち上げのために退社したのちには、ロールス・ロイス社にとってはもう一つの基幹事業たる航空機エンジン部門出身のエンジニア、ハリー・グリルズがシルヴァー・クラウドの開発チームを率いることになった。また、ベントレーRタイプ・コンティネンタルで素晴らしい功績を挙げたエンジニア兼デザイナーのアイヴァン・エヴァーデン、そしてスタイリストのジョン・ブラッチリーからなるクルーの“黄金コンビ”も、シルヴァー・クラウド開発の主要メンバーとして参加していた。
のちにシルヴァー・クラウド/Sタイプとなる新型車の開発に先立つ基礎研究は、エヴァーデンとブラッチリーのコンビによって、既に1948年からスタートしていた。そして2年後の1950年になると、ロボサムの率いるR-R開発チームが参画し、新型車の開発プログラムは正式にスタートするに至った。当初、“ベントレー8(またはⅧ)”なる社内コードナンバーで開発されていたプロジェクトについては、ファンタムⅣと同じ、軍用車エンジンに端を発するB80型ストレート8の搭載を真剣に論議していたという。また、R-RファンタムⅢや航空機用エンジンで既に確たる実績のあるV12エンジンの新規開発も検討されたのだが、戦時中に製作したB80エンジンを搭載する試作車“スコールド・キャット”が酷いハンドリングに苦しめられた教訓から、そして何より北米市場に於いてV8エンジンの人気が高い事情を勘案して、もっとモダーンかつ軽量なV型8気筒エンジンを新規開発して、新型車に搭載することが決定されたという。この“ベントレー8”プロジェクトは、のちの生産型シルヴァー・クラウドよりもさらに先進的なスタイリングが与えられていたとされているが、やはりコンサヴァ志向の強かったロールス・ロイス経営陣には受け容れ難かったようで、1951年頃には、新たに“ベントレー9”と呼ばれる第二次プロジェクトに移行することになった。そして、ベントレー9プロジェクトには“ロールス・ロイス・シルヴァー・クラウド”/“ベントレーSタイプ”という正式なネーミングが与えられて、正式な量産化に向けた開発プログラムが全社を挙げて進められることになったのである。
このような経緯ののちにデビューしたシルヴァー・クラウド/Sタイプ。そのパワーユニットについては、新しいV8エンジンの開発が間に合わないため、当初はシルヴァー・ドーン/Rタイプから継承された直列6気筒Fヘッド・ユニットが搭載されることになった。ただし、この6気筒エンジンは従来型のまま踏襲されたわけではなく、シリンダーヘッドがついに軽合金化されたほか、ベントレー版だけではなくロールス・ロイス版にもツイン・キャブレターが採用されていた。トランスミッションは、この両モデルから“ハイドラマティック”式の4速オートマティックがスタンダード化。ベントレー版、しかも右ハンドル仕様に限っては、キャビン右端にレバーを置く4速マニュアル式も依然として選択可能ではあったが、メーカー側の推奨するデフォルトはあくまでオートマティックであった。
一方、シャーシーの基本レイアウトはシルヴァー・ドーン/Rタイプ時代と同じくセパレートフレームとされたが、そのフレームは完全な閉断面を持つサイドレールを同じく閉断面のXメンバーで繋いだ、強固極まりないものに新設計された。サスペンションも戦後ロールス・ロイス/ベントレーの標準となった前ダブルウィッシュボーン/後リーフ・リジッドなのだが、こちらも完全な新設計。フロントはAアームに後退角のついた純粋なダブルウィッシュボーンとなったほか、ジョイントも近代的なボールジョイントとされた。リアもコンヴェンショナルなライヴアクスルに加えて、フレームとアクスルハウジングを結ぶラジアスアームが新たに装着されることになった。また正式デビューの翌年となる1956年3月には、まず輸出向けからパワーステアリングのオプション装着が可能となり、同年10月には英国内仕様でもオプションリストに載せられた。他方ブレーキについては、例によって後輪にイスパノ・スイザ式メカニカルサーボを持つ4輪ドラムが継承された。また前輪ブレーキも、ベントレー・マークⅥ以来の油圧式である。ただし、サーボの配分は変更され、フロントはサーボ100%、リアはサーボ60%+ペダル踏力40%とされている。そして、これも1925年のファンタムⅠから伝承されてきた、ペダル操作一つでサスペンション用グリスの補充ができる“ワンショット・リュブリケーション”も装備されていた。
スタンダードボディながら、「戦後に製作されたR-R/ベントレーのサルーンの中でも最も美しい」と評され、のちのシルヴァー・セラフや現行ファントムのモチーフにもなったボディデザインは、当然のことながらエヴァーデンとブラッチリーの協力によって行われたもの。1951年前半にはボディデザインが決定され、直後にはパークウォードに於いて試作車も作られたのだが、そのスタイリングについては、H.J.マリナーが1950年にシルヴァー・レイス用シャーシーに架装、アールズコート・ショーに出品した“Lightweight”4ドア・スポーツサルーンの影響が大きいと言われている。当時のH.J.マリナーは、戦前にR-R傘下となっていたパークウォードとは違って未だ独立した会社組織だったのだが、先に述べたベントレーRタイプ・コンティネンタルの例からも想像がつくように、クルーとは既に密接な関わりを持っていたようだ。また、前任モデルの生産のため、初めて締結されたプレスド・スティール社との供給契約は継続されたが、新しいシルヴァー・クラウド/Sタイプからは、シルヴァー・ドーン/Rタイプ時代のような単なるプレスパネルの供給ではなく、ちゃんとした骨格を持つホワイトボディ状態での納入が行われることとなった。
他方、実例こそ極めて少数だが、シルヴァー・クラウド/Sタイプでもローリングシャーシーの販売は継続されており、スタンダードボディでは満足できない顧客の要望によっては、名門コーチビルダーによるアルミ製コーチワークボディを架装した個体も製作されていた。その中でも最も有名かつ評価が高いのは、H.J.マリナー製のドロップヘッドクーペだろう。また、シルヴァー・クラウド/Sタイプにもホイールベースを4インチ(約10cm)延長したロングバージョンが、1957年6月から追加されることになったが、そのコーチワークはクルー工場内ではなく、すべてR-R社傘下のパークウォード・ウィルズデン工房で行われたことから、現在ではコーチビルドボディの一つと見なしている識者も少なくない。
シルヴァー・クラウドⅠの生産台数は、標準版が2238台(その内121台がスペシャルコーチビルド)、LWB版が122台(その内36台がスペシャルコーチビルド)であった。他方、ベントレーS1の生産台数は、標準版が3072台(その内145台がスペシャルコーチビルド)、LWB版が35台(その内12台がスペシャルコーチビルド)であった。さらに、ベントレーSタイプについては、スポーティなコーチビルド専用モデル“コンティネンタル”がRタイプ時代に引き続き用意されることになるのだが、その魅惑的なスポーティ・ベントレーについては、このあと詳しく解説させていただくこととしたい。