2019年は、当ミュージアム所蔵のベントレーをアメリカのペブルビーチコンクールデレガンスに出展することをはじめとして、記念すべきことが次から次へと起きました。それらについて書くことをまずは優先させてしまったために、この連載の本来の狙いとする私の半生について書くことがずっと後回しになってしまっていたことをご容赦下さい。今回から始めます。
私は東京都台東区で1946年に生まれました。5人兄弟の次男坊で、父・増太郎はワク井商会という時計の卸し会社を営んでいました。ワク井商会は、祖父の兼太郎が創業した会社です。祖父は、貴金属を加工する職人でしたが、後にそれらを扱う貴金属商となったのがワク井商会の始まりです。父がそれを引き継ぎ、発展させました。現代とは商売を巡る事情が何から何まで違っているので、想像するのが難しいかもしれませんが、父は手広く商売をしていました。セイコーをはじめとする各社の時計を扱い、それを日本全国の時計店に卸していました。前回の東京オリンピックのあった1964年には、日本全国に時計店が4万軒あったといいますから驚いてしまいます。
時計は腕時計の他、壁掛け時計や柱時計、目覚し時計などあらゆる時計を扱っていました。“Wakui"ブランドの柱時計も製造して販売していたほどです。今、オフィスに掲げているのがその時のものです。クオーツ時計が出現する前だったので、壁掛け時計や柱時計は何日かおきにゼンマイを巻く必要がありましたし、腕時計も自動巻きでなければリュウズを指で巻き上げておかねければなりませんでした。まだ、すべての時計は機械式の貴重品だったので、柱時計や壁掛け時計に目覚し時計など、家にある時計を「コレとアレとアレ」と指折り数えることができる時代でした。腕時計も入学や成人の祝いに買ってもらったものをずっと使い続ける貴重品と決まっていました。自分の腕時計を持つことが大人の仲間入りの第一歩だった時代です。
今は、携帯電話を初めとして、テレビや電子レンジ、湯沸かしポットや万歩計などにいたるまで、あらゆるものに時計、というか時刻を表示するディスプレイが備わっているので、それらがいったい家にいくつあるのか自分でも把握できている人はいないんじゃないでしょうか?そんな時代でしたから、時計の流通もシンプルでした。メーカーが造った時計はワク井商会のような業者によって全国の小売り時計店や百貨店に卸されるだけです。現代のような家電量販チェーン店やディスカウントストアのようなものは存在していませんでしたから、時計を買うのは時計店と百貨店に限られていたのです。
時計というものの在り方と流通の違いによって、卸し商という父の商売は繁盛していました。時計を積んだ20台のトヨペット・マスターラインが会社を起点にして、つねに青森から鹿児島まで飛び回っていました。非常に多くの時計店と百貨店に卸していたわけですから、繁盛していたのだと思います。父のことを従業員が驚いていたのを聞いたことがあります。
「社長は日本中の道を諳んじているんです。出張先で私が迷ったりしていると、“次の交差点を右に曲がって、二つ目の信号を左に"といった具合に憶えているんですね」
父は全国の得意先を従業員とともにクルマで回って開拓してきましたから、何度も通ううちに道を憶えてしまったのですね。そんな具合に、家にはクルマがありましたし、会社にもたくさんあったから、クルマには縁がありました。
私には11歳上の兄・富一がいて、彼は16歳になると、さっそく当時の小型車免許を取っていました。18歳になると普通免許を取り、家にあったダットサンだかトヨタ・コロナを運転して浅草の自宅から都立・上野高校に運転して通っていたほどのクルマ好きです。兄は早稲田大学に進学し、自動車部に入りました。
兄は11歳上でしたから、私には優しくしてくれました。私もクルマ好きになり、のちにロールスロイスとベントレーのクラシックカーを扱う仕事を興すことになると知ったなら、兄も驚いていたに違いありません。残念なことに、兄・富一は私が高校三年生の時に29歳で亡くなってしまいました。
白血病でした。
クルマに対する興味と関心や初歩的な素養は確実に兄から受けた影響が基礎となっているのだと思っています。
兄がクルマに乗るようになっても私はまだ小学生でしたから、夢中になっていたのは切手集めでした。切手がコレクター人生の始まりです。次は、蝶。捕まえて、標本にして箱に収めていました。まだ東京にも自然がたくさん残っていましたが、すぐにエスカレートして近郊の野山に遠征して蝶々を追い掛けるようになりました。最終的には、日本国内では飽き足らずに、のちにマレー半島にまで採りに出掛けるようになります。
初めは電車で通っていたのが自転車になり、より機動力を増すために高校生になるとオートバイに乗るようになりました。オートバイは最初は蝶の採集の移動手段に過ぎませんでしたが、やがてオートバイ自体に興味を抱くようになりました。一台を乗って走り回るだけでは飽き足らずに、コレクションの対象となっていったのです。
アレもコレもと手に入れ、あちこちに保管しておくうちに台数が増え、一時は50台にもなっていましたから呆れたものです。クルマと一緒で同時に2台は乗れないのがわかっていても、欲しくなったものは手に入れなければ気が済まず、処分よりも次のオートバイを手に入れる算段を考えるようになる思考パターンは、のちにロールスロイスとベントレーのクラシックカーを集めるようになった時とまったく変わりません。
家業によって身近にクルマがあったことや、クルマ好きだった兄の存在などが若い頃の私に間違いなく大きな影響を及ぼしていたと言えるでしょう。切手や蝶、オートバイなどを集めていたコレクター志向は途切れなくそのまま今につながっています。こうして振り返ってみますと、家業と兄、そして生来のコレクション癖がワク井ミュージアムの基礎の基礎を形作っていたということになります。