涌井清春ヒストリー
「私の半生」

第15回

あらためて父の教えに感謝することに

前回、私が「売らないクルマ屋」と呆れられていたことを書きました。お客様に売るためのクルマだけではなく、自分のコレクションとして入手したクルマを同じ場所に陳列してしまっていた不手際が原因でした。

実は、「売らないクルマ屋」と呼ばれたのには、もうひとつ理由があったのです。それは、私の父の「商売は大きくし過ぎるな」という教えによるものです。それを守ったことで、結果的に「売らないクルマ屋」になりました。

どういうことでしょうか?
 第9回でも書きましたが、父は時計のセイコーの販売会社を経営していました。セイコーの販売会社は、それ以前に父が経営していた時計の問屋が発展して設立されたものです。したがって、父の仕事や経営についての考え方や姿勢などのほとんどは、セイコーという世界的大企業のものではなく、問屋時代に培われたものと言って良いでしょう。

具体的には、“在庫と売掛け金と従業員の三つを持ち過ぎるな” というものです。問屋時代はセイコーだけでなく、シチズンやオリエントなど他のメーカーの時計も小売店に卸していましたから、売り上げを大きく伸ばすためには手を拡げる方が有利でした。取引する小売店も全国にありました。ひとつでも多くの小売店に、ひとつでも多くの時計を卸そうと、拡大路線を敷いていました。

その頃は、東京・上野のワク井商会の本社からトヨペット・マスターラインの営業車20台に商品を乗せて全国に配送していました。注文にすぐに応じられるように、大きな倉庫を構えて大量の在庫を持ち、大勢の管理と配送スタッフたちを社員として雇っていました。その規模は他の問屋を圧倒するものでした。しかし、時代の趨勢などもあって、そうした数を追い求める経営が必ずしも好ましくなくなっていきました。規模を拡大してもその分コストが肥大し、利益を圧迫することの方が多くなっていったのです。そうすると、在庫と売掛け金と従業員の多さが負担となっていきます。そのことを教訓として、セイコーの販売会社を経営するようになってからは、無闇に規模を拡大することは止めました。

父の帝王学は兄が受け継いでいたのを弟として見たり聞いたりして知っていました。私より11歳々上の兄は優秀で、父の跡を継ぐ予定でしたが、残念ながら白血病で若くして亡くなってしまいました。私もセイコーの販売会社と本社に15年ほど勤めていましたが、その間に、父から直接にも間接にも教えられたことがあります。ただ、私がセイコーを辞めて独立し、クラシックカービジネスを始めた時には父はすでにおりませんでしたから、身に付いていた教えを意識的にせよ無意識にせよ守ったことになります。

在庫を抱え過ぎるなという教えは、自然と守れていました。在庫というのは、仕入れたクルマを一時的に保有しておくことです。私のところでは、もともと在庫があまり発生していませんでした。その頃の展示場所に並べていたクラシックカーは、ある “範囲” に収まっていました。範囲とは、お客様が具体的な車名を挙げてご注文いただいたクルマから、私が自分のコレクション用に買ってきたクルマまで、のことです。両端に、私かお客様が入手することがハッキリしているクルマがあります。私かお客様か、納車整備が終わればすぐにどちらかのガレージに納まるはずのクルマです。その中間が、注文は受けていないが何人かのお客様に勧めてみようかと考えているクルマや、ロールスロイスとベントレーのクラシックカーを扱っている上で欠かせない、定番的なクルマや、反対に定番の中でも特別なクルマなどです。

陳列しているすべてのクルマに意味がありました。それが私のコレクションなのか、お客様から依頼されて仕入れたクルマなのか、これからお客様にお勧めしようとしているクルマなのか、ここに並べられている理由が明確だったのです。ただなんとなく仕入れて並べたクルマは1台もありません。時計とクラシックカーでは商品の特性がまったく違いますが、結果的に「在庫を少なくしろ」という父の教えはそうやって守られていたのです。

従業員の数についても、自ずと定まってきます。私がこのビジネスを始めた直後には、クルマの整備は広島自動車という工場に依頼していましたが、すぐに自社で行うようにしました。クラシックカーを扱うには、整備が命だと考えたからです。そのために、コーンズで長年ロールスロイスの整備に携われてきた腕利きメカニックの木之村さんと契約しました。彼を中心にした態勢を組み、他に2名のメカニックも追加で雇い、営業や総務などを固めました。おのずと経営のキャパシティは定まってきます。

一般的な新車の販売ならば、ディーラー拠点と営業マンを増やせばそれに比例して販売台数は増えますが、クラシックカーはそういうわけにはいきません。販売するすべてのクルマはキチンと走行できるようにして売っていましたし、一台ずつコンディションが千差万別のクラシックカーは売った後の手入れも欠かせません。だから、整備の態勢は命なのです。したがって、販売台数を増やして売り上げ金額を拡大することは簡単にはできませんでしたし、また、するつもりもありませんでした。

売掛け金については言わずもがなで、掛け売りをするほど販売台数の拡大はそもそも目論んでいませんでしたので、これは最初から父の教え通りのことが励行できていました。在庫、従業員数、売掛け金。これら三つを可能な限り抑えよという父の教えは、図らずもこんにちまで変わらない私のクラシックカービジネスの進め方と軌を一にするものとなっていました。

もうひとつ思い出すのは、私の創業前後にまだあちこちに存在していた、あまり質の良くない古いタイプの中古車業者のことです。環八通り沿いを始めとして、あちこちにありました。創業するか、まだの頃に客として何軒か訪れたことがあります。まだ私もロールスロイスとベントレーに関する知識が十分ではなかった頃のことでしたから、そうした業者の店で質問をいくつかしましたが、誠意も専門性も感じられない応対ぶりに呆れたことが続きました。

「このシルバークラウドは実際にナンバーを取得して走れるようにするには、費用と時間をどれくらい考えておけば良いですか?」

たしか1500万円の値札が付けられていたシルバークラウドの登録と納車に関して質問しました。

「そういうクルマを買う人は、整備のことなんて心配しないものなんだよ」

つまり、あれこれ訊いてくるんじゃない、そういう人には売らない、黙って1500万円払えば売ってやってもいいが、登録だ整備だのなんて後のことは知ったこっちゃない。

いま聞くとビックリさせられてしまう口ぶりですが、当時はバブル景気もあって、業者は高飛車でした。とても “自動車文化” などを云々できるような段階にはなかったのです。ただ高価な中古輸入車を右から左へさばいているだけでした。しかし、その時、私は自分でもクラシックカービジネスを始めようとしていましたから、こうした業者はとても良い反面教師となってくれました。つまり、彼らの至らないところをちゃんとやればお客さんの支持を得られるだろうという確信に満ちた予想です。

その店のシルバークラウドの隣にはシルバーシャドウが並んでいて、私は「どう違うの?」と質問してみましたが、店員は答えられませんでした。ワクイミュージアムでしたら、それぞれのクルマの解説やロールスロイスの歴史から見た位置付けなどをわかりやすく説明します。もちろん、納車に関する整備や手続きなども同じように説明します。そうした当たり前のことすら満足にできていなかった店が何軒もあったのです。時代が違うといってしまえばそれまでですが、ビックリしてしまいます。そうした業者は時代によっても淘汰されていき、現代ではあり得ない存在です。

私には父の教えと一緒に、セイコーでの15年間のサラリーマン経験がありました。社内はもちろん、社外の人たちにも十分な説明を行なってコミュニケーションを行うのはもちろんです。時計メーカーだけあって、時間には厳しかったです。すべての仕事の始まりと終わりが時間的に厳しく管理されていました。その経験があったのと父の教えが身に沁みていたので、当時の中古車業者とは反対の公明正大な接客と、構えを大きくし過ぎない経営を指針にして営業を続けることができたのです。

売り上げを挙げることができなければ、営業を続けることができません。でも、売り上げが目的でビジネスを行なっているのでもありません。自分のコレクションを充実させながら、お客さんに喜んでもらうためにビジネスをしています。私がコレクターでもあることが有利にも作用しています。クラシックカーを愛する者同士としてお客さんと想いを共有することができるからです。

自動車文化うんぬんはこちら側の話で、まずはお客さんが「良いクルマを買った。また次もワク井から買いたい」と喜んでくれなければなりません。そうして、少しづつお客さんが増え、継続していくことができたのも、売り上げ額や台数拡大を最優先にしなかったからだと自負しています。そのことを指して “売らないクルマ屋” と呼ばれていたのでもあります。だから、父の教えに感謝すると同時に “売らないクルマ屋” と呼ばれていたことを私は誇りに思っています。

(構成:金子浩久)

(第15回 了)

 

 

PAGE TOP

 

無断で記事・写真の転載を禁じます
Copyright ©  WAKUI MUSEUM All Rights Reserved.