涌井清春ヒストリー
「私の半生」

第10回

バーゼルのロールスロイス

大学を卒業して、服部時計店(現・セイコーホールディングス)に就職しました。家業のワク井商会が時計と貴金属の卸し会社だった関係からです。
 20年間勤めましたが、主に担当した業務は販売店支援とブランド構築です。1970年代のことですが、時計の販売も時代の波にさらされ始めていました。それまで、時計というものは地域にある時計専門店や百貨店で購入されるものでした。それが、だんだんと電気製品やカメラなどを扱う大型の量販店で売られるようになっていったのです。
 量販店は規模の論理で、割引き価格で売ることを前提としていました。それによって、顧客は地元の専門店では買わなくなり、店も淘汰されていくようになりました。
 その現象は時計に限ったわけではなく、電気製品やカメラなどでも発生し、やがてはあらゆる商品に及んでいったので、憶えておられる方もいらっしゃるかと思います。のちに、流通革命と呼ばれます。

私が担当したキャンペーンで「セイコーでスタート」というものがありました。腕時計は、春の進学シーズンに合わせた需要が最も多く売れる時期でした。人生の節目を祝う記念品として買われることが多かったのです。
 そうした買われ方の変化と売り方の変化が表裏一体で訪れたのです。
 上司や同僚たちと、この変化をどう捉えるべきなのか何度も議論を重ねました。現象の兆候は私が入社する前から起こっていましたが、勢いは弱まることなく地域の時計専門店は減っていく一方でした。

いま、2020年から振り返っているからこうして整然と書くことができていますが、当時はなにがなんだかわからなかったのは言うまでもありません。
 この現象が一時的な傾向に過ぎないのか、それともずっと続くのか?
 続くとしたら、いつまで続くのか?
 セイコーではさまざまな対策を講じましたが、最終的に時代の趨勢に抗うことはできませんでした。最終的には専門店にも、量販店にも商品を卸すことになったのです。

この時に得た教訓としては、「一番の店しか生き残れない」というものを得ました。ここで言う “一番” とは、売上高のことではありません。売上高では資本力の強大な量販店にかなうはずがありません。
 “一番” とは、品揃えだったり、商品知識だったり、サービスだったり、何でも良いのです。他店には負けない何かを持っている店が、“一番の店” です。
 つまり、別の言い方をすると、何の特徴もない専門店というのは、“ただ時計を売っているだけの店”ということになってしまい、存在感も薄くなり、生き残ることができない厳しい時代になったというわけでした。

前回のこの連載で、私の父が問屋を営んでいた頃には日本全国に時計専門店が4万軒あったと書きました。結局、それがピークで、徐々に1万5000軒にまで急減少しました。現在は、もっと少なくなっているはずです。本当に、専門店にとって厳しい時代になったと思います。
 しかし、この「一番の店しか生き残れない」という教訓は、のちに私がセイコーを辞めてクラシックカービジネスを始める時の大きな指針となってくれるのです。何が幸いするかわかりませんね。

もうひとつ、私がセイコーで携わったのがセイコーのブランド構築でした。専門店向けと量販店向け、それぞれの流通経路と態勢を整え、次は確固たるセイコーブランドを構築する必要が生じてきました。
 いくつもの理由がその背景にあったのですが、大きなもののひとつはクォーツウオッチの出現です。セイコーは1969年に世界初のクォーツ式腕時計「アストロン 35SQ」を発売していました。日本での販売価格が48万円。当時としてはとびきり高価ですが、それだけの衝撃性を持っていました。従来の機械式に取って代わる、まったく異なる原理を有した革新的な機構を持った時計です。
 ケタ違いの精度、巻き上げが不要でバッテリーが保つまで時を刻み続けます。時計にまつわるそれまでの常識を一気に覆す革新そのものだったと言って良いでしょう。
 蒸気機関車が電車になり、馬がクルマに代わったのと同じようなものです。
 数百年間もの間、原理が変わらずに続いていた機械式時計の時代をセイコーはクォーツ式時計で終わらせようとしていました。「セイコー・ショック」とも呼ばれていました。
 実際に、スイスの時計会社は次々と倒産していきました。セイコー以外のメーカーもクォーツ化に追随し、一旦は機械式時計は過去のものになりました。そして、その後の現在までの半世紀で、生産される世界の腕時計の98%はクォーツ式となるのです。

セイコーの業績は上昇し、クォーツ化によって世界は変わりました。生活や仕事、さまざまな営みにおいて、時計の心配がなくなったのです。いち早くクオーツ化を成し遂げたセイコーは大きな貢献をしたのだと私たちは自負していました。
 その想いは今でも変わりませんし、第三者からの評価も不変です。
 しかし、企業の経営を考えると次なる課題がその先に立ち塞がってきたのです。ブランド構築です。

たしかにセイコーはクォーツウォッチを世界で初めて製品化しました。しかし、それによって強固なブランドを構築できたでしょうか?
 スイスのバーゼルで、年に一度、腕時計の見本市が開催されます。世界中の時計メーカーが出展する最大のショーです。ここで各メーカーは新作を発表し、世界中から集まるバイヤーやメディアに披露します。
 セイコーもクォーツ化が始まる前から出展し続けていて、私もマーケティング部の一員として1980年前後に何回か日本から出張したことがあります。
 バーゼルは見本市の街で、大きな見本市会場が中心部にいくつもあります。私が通っていた頃には、その中でも最も広い会場で時計のショーが行われていました。
 正面玄関を入ると、真ん中に太い通路があり、メーカーのブースはその両側に並んでいます。一階が腕時計で、二階が各種の卓上用や壁掛け用など、三階がベルトやケースなどの部品、四階が時計を組み立てたり修理したりする工作機械のメーカーの展示だったように憶えています。
 出張の都合があって、私はひとりで会場に入りました。正面入り口の左側がパテック・フィリップで右側がロレックスでした。スイス高級時計の二枚看板です。どちらも立派なブースを構えています。じっくりと見学させてもらいたいところでしたが、まずは同僚たちが待っているセイコーのブースを探しました。

会場は、右側と左側それぞれのブロックに分かれて、ブースが連なっています。パテックフィリップとロレックスの間を奥に進みながらセイコーのブースを目指しました。オメガ、ブランパン、ヴァシュロン・コンスタンタン、ピアジェなど名だたる名ブランドのブースが続いていきます。
 それらの後ろに、それぞれ2列目のブースが続きます。左も右も見ましたが、セイコーはありませんでした。
「おかしいな?」
 さらに後ろの3列目が、まだあります。そこを端からひとつずつ見ていくことにしました。3列目ともなると、腕時計のマーケティングの仕事をしていた私でも知らないブランドが増えてきます。
 ありました!
 なんと、我がセイコーは右側3列目の奥の方にブースを構えていたのです。一階の端の方です。そこにはアストロンをはじめ、最新型のクォーツウオッチを展示していました。商品や展示などで、他のブランドに何の引けも取っていませんでした。なんといっても、世界で初めてクォーツを商品化したメーカーなわけですから。
 でも、場所が奥の方だったことによる不利から、招待客以外はあまり来場者も来ていませんでした。1列目の有名ブランドのブースにはつねに人だかりがしているのに、寂しい限りです。

翌年も、翌々年もバーゼルに通いましたが、状況は変わりませんでした。主催者に頼み込んでも2列目や1列目に変えてくれるというものではありませんでした。セイコーは、時計の本場スイスでは存在感が薄いという事実を私は受け入れなければなりませんでした。
 バーゼルに出展している他のメーカーと較べても、セイコーは決して小さな会社ではありません。それは今と変わりません。
 しかし、存在感の薄さは何に起因しているのだろうか?
 その疑問に対する答えは自ずと導き出されていました。
 ブランド、です。
 製品のクオリティや先進性、企業規模などとは別に、ブランド価値がどれだけあるかが問われているのです。残念ながら、当時のスイスの高級腕時計の世界では、セイコーのブランド価値は高いものではありませんでした。それが、バーゼル会場の3列目の後ろというブース位置の意味だと私は解釈しました。

クルマは好きで、大学入学時にトヨタ・コロナを買ってもらって以来、セイコーにいる間もあれこれ乗っていました。
 ちょうど、バーゼルの時計見本市が開かれている時期には、近くでクラシックカーのオークションも開かれていて、仕事が早く終わった時に覗いてみたのです。
 圧倒されたのが、ロールスロイスだったのです。本でも見たことのないような珍しいモデルがたくさん出品されていました。スイスはお金持ちも多く、そのオークションにもベントレーやブガッティ、マセラティなどそうそうたる逸品が集まっていました。
 でも、ロールスロイスが醸し出しているオーラは他のクルマとはまったく異なっていました。これこそが、ブランドというものではないか!?
 私がクラシックカービジネスを始める前に、ロールスロイスのブランドを強く意識するようになったのは、このバーゼル出張からのことです。

(構成:金子浩久)

(第10回 了)

 

 

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