涌井清春ヒストリー
「私の半生」

第4回

ミュージアム開設のキッカケとなった白洲次郎の3リッター・ベントレー

私は長い間、“売らないクルマ屋” と冗談半分に呼ばれていました。

いろいろとクラシックカーを仕入れてきても、それらを売らずに自分のコレクションに仕舞い込んでしまうからです。

そう呼ばれなくなったのは、ミュージアムを造って私のコレクションを公開したからでしょう。

ミュージアムは、いずれ建てたいと思っていました。ミュージアムとクラシック・ロールスロイスとベントレーについての本を出したいとはずっと考えてはいたんです。しかし、何かのキッカケがないと思っているだけではなかなか動き出すことができませんでした。

キッカケとなったのは、1924年のベントレー3リッター(シャシーナンバー653)でした。このクルマは白洲次郎が戦前にケンブリッジ大学に留学していた時に乗っていたクルマです。

1924年 Bentley 3Litre #653
 
1924年 Bentley 3Litre #653
 
1924年 Bentley 3Litre #653
1924年 Bentley 3Litre #653 この車の解説を見る

そのクルマの詳細は知りませんでしたが、イギリスに現存していることを教えてくれたのが、『カーグラフィック』誌を創刊された故・小林彰太郎さんでした。

2003年のある日、自動車部OBとして出身大学を訪問された足で、近くの弊社を奥様と訪問いただきました。

白洲次郎の3リッター・ベントレーが現存していて、ベントレー・ドライバーズクラブ(BDC)のメンバーが長年、所有していることを教えてもらいました。

「戦前のイギリスで日本人が乗っていた貴重なベントレーなのだから、輸入して日本で保存するべきでしょう」

小林さんの言葉には力がこもっていました。

私は白洲次郎という人がどんな人物なのか、ほとんど知りませんでした。そういう人がいて、ベントレーに乗っていたことは何かの記事で読んだことがあるくらいの認識でしたから、イギリスに現存していることももちろん知りませんでした。

さっそく、現地スタッフであるブライアンに調べさせました。

その報告には驚くべき事実が列挙されていました。私は興奮しながら繰り返し何度も読んだことを良く憶えています。

それによると、ケンブリッジ大学に留学していた次郎は、1924年 6月にジョン・ダフというディーラーから、シャシーナンバー653の新車を購入しています。まず、この事実に驚かされました。

このジョン・ダフという人物は、いわゆる “ベントレー・ボーイズ” の一員で、ロンドン市内でベントレーのディーラーを営んでいました。

ダフは、次郎が3リッター・ベントレーを購入した1924年の、まさにその年のル・マン24時間レースにベントレー社の実験部長フランク・クレメントと組んで優勝しているのです。レースは毎年必ず6月に行われますから、ちょうど次郎が購入した前後の頃です。

その優勝祝賀パーティに次郎も招待され、参加していることを、のちに次郎の娘である牧山桂子さんから伺ってもいます。

次郎は、このクルマで学友のロビン・ビングとイベリア半島一周のドライブ旅行に出掛けています。パイロットキャップにコート姿の次郎がクルマの脇に佇む有名な写真は、この時のものです。

現代風に言えば、グランドツーリング(GT)です。スペインの最南端であるジブラルタルを目指してイギリスから大陸を南下し、その ままグルッとイベリア半島を周遊しています。その旅に必要だからベントレーを選んだのか、あるいはベントレーでなければ走破できないコースをあえて策定したのかは定かではありませんが、その選択眼の確かさに唸らされました。

写真を良く見ると、路面は舗装されていません。タイヤやフットステップ上に固定されたスーツケースには巻き上げられた泥がこびりついています。ヨーロッパといえども、当時は未舗装の道を走らなければならなかったことを物語っています。

若者だったからとはいえ、劣悪な道路環境の下、オープンボディの3リッター・ベントレーで12日間も走り続ける体力と胆力に驚かされたものです。

留学を終えた次郎は帰国の際にこのクルマをイギリスに残してきますが、それを21世紀まで引き継いで乗り続けていた人がいて、また、BDCのような団体が活動を続け、乗り続けられる境遇が整っているところにイギリスのクルマ文化の奥深さを感じたものです。

と同時に、私はなんとしてでもこのクルマを手に入れるのだと堅く決意しました。

ブライアンには、オーナーの元に何度も交渉に赴いてもらいました。半年間で10回は通ってもらったはずです。

最初は、色良い返事はもらえてませんでした。オーナーはそのクルマをとても気に入っていて、手放す気持ちがなかったからです。奥さんとのイタリア旅行をはじめとする思い出が一杯だから手放したくないというのがその理由でした。

もっともな理由ですが、こちらにはさらに強いモチベーションがありました。ブライアンに粘り強く交渉してもらうと、譲って欲しいと訪ねてきたのは私たちだけではないと明かしてくれました。

戦後になって次郎が会長を勤めていた東北電力とトヨタ博物館から譲って欲しいと、以前に申し入れがあったそうです。

「あなたがたは熱心で、同じBDCクラブメンバーだから譲っても構わない。価格も相場通りで良い」

これは日本にあるべきクルマなのですという私たちの説得にも理解を得ることができ、晴れて2004年に日本にやって来ました。

このクルマが私の元にやってきたと同時に、“いつかミュージアムを造りたい” という願望が一気に現実化していきました。小林彰太郎さんからも、「いつでも走り出せる動態保存を原則としたらどうか」と背中を押していただきました。

このクルマは単なる一台の3リッター・ベントレーではなく、日本人が1920年代のヨーロッパを縦横に走り回っていたという史実を伴った貴重な文化遺産でもあるのです。

ですから、私が独り占めするわけにはいきません。大袈裟に言えば、日本人全員のクルマのようなものです。であるならば、公開して、みなさんに見てもらうのが持った者の責任です。

美術品のオーナーのことを「一時預かり人」と表現することがあります。ルノアールやピカソの絵画を所有していても、その人が永遠に持ち続けることはできません。人類全体の宝なわけですから、オーナーが亡くなったら、然るべき次のオーナーに引き継がれなければなりません。人の寿命には限りがありますが、文化は永遠です。

クラシックカーも同じです。たまたま、今は私の許にありますが、いずれ次のオーナーに継承する義務があります。そうした考えは以前からおぼろげながら有していましたが、この白洲次郎の3リッター・ベントレーが手元に来たことによって、一気に具現化しました。それ以来、私は館長として、そして現在は相談役としてワクイ・ミュージアムの運営に携わっています。

人生の転機が何によってもたらされるかは人それぞれでしょうが、私はクルマによって人生が変わりました。一台のクルマが人間にもたらす影響の大きさを感じるようになりました。これからは、より一層とクルマ文化を継承していくことの重要性が増していくことでしょう。白洲次郎の3リッター・ベントレーは、そのキッカケとなった一台でした。(構成:金子浩久)

(構成:金子浩久)

(第4回 了)

 

 

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