ロールスロイス&ベントレーの歴史

Post War:第二次大戦後篇

チャプター20「コーニッシュとカマルグ」

コーチワークボディを継承するもの

ロールス・ロイス/ベントレー史上初めて、モノコックボディを持つシルヴァー・シャドウ/Tタイプの誕生に伴って、同社からはファンタム系を除くコーチワークボディ用の専用ローリングシャーシーは消滅。名作ベントレーRタイプ・コンティネンタルに端を発するスポーティな2ドアパーソナルカーについては、その存亡が危ぶまれることになった。しかし、アイヴァン・エヴァーデンとジョン・ブラッチリーは、前章で解説した“ビルマ”を生産化準備チームに引き渡した直後となる1960年後半に“コリア”と呼ばれるプロトタイプを密かに製作。1961年の合併に伴って、ともにロールス・ロイス社の一部門となった“マリナー・パークウォード”社とのコラボレーションで、従来どおりのベントレー、そしてロールス・ロイスの新たなるクーペ/ドロップヘッドクーペの開発を進めようとしていた。そのコリア・プロジェクトから生まれたモデルが、R-Rシルヴァー・シャドウ/ベントレーTシリーズのバリエーションとして1967年にデビューした、マリナー・パークウォード製2ドアサルーン/コンヴァーティブルである。

ロールスロイス&ベントレーの歴史
ロールスロイス&ベントレーの歴史
ロールスロイス&ベントレーの歴史

コリア・プロジェクトの立ち上がった当初には、よりスポーティなアピアランスやハンドリングを得るために、ホイールベースの短縮も真剣に検討。“ビルマ”のSWB版フロアパンを流用したプロトタイプも製作されていたというが、やはりロールス・ロイス/ベントレーの基準で「フル4シータークーペ&コンヴァーティブル」と呼ぶに相応しいだけの室内スペースを確保するためか、結局モノコックのフロアパンはシルヴァー・シャドウ/Tタイプと共用されることになった。もちろんボディデザインについても、スタンダード・スティール・サルーンたるシルヴァー・シャドウ/Tタイプと同じく、ブラッチリーとエヴァーデンの黄金コンビの主導で作業が進められたとされている。

マリナー・パークウォード製2ドアサルーン/コンヴァーティブルは、一見したところベースのシャドウ/Tタイプのスティール製ボディをそのまま2ドア化(コンヴァーティブルについてはオープン化も)しただけのようにも見受けられるが、その実すべて手叩きのアルミパネルによるハンドメイドである。左右ドアの背後には上品なキックアップが表現され、Rタイプ/Sタイプ・コンティネンタルのH.J.マリナー製“プレーンバッククーペ”、あるいはS2コンティネンタル時代の“ハードトップクーペ”の血統を受け継ぐことを無言の内にアピールするもの。また、プレスド・スティール社からホワイトボディが供給されるサルーン系とは違って、2ドアサルーン/コンヴァーティブルのボディはマリナー・パークウォードの熟練工がアルミパネルを手で叩くという旧来の手法で一台一台手づくりするため、スタンダード4ドアサルーンの約2倍にも及ぶ工程と製作期間を要するといわれていた。また、そのインテリアに施されたフィニッシュも、例えばウッドキャッピング一つをとっても、より手の込んだ寄せ木細工を立体的に用いるなど、ベーシックモデルたるR-Rシルヴァー・シャドウ/ベントレーTのそれを数段上回る、素晴らしいものとなっていた。マリナー・パークウォード製2ドアサルーンは1971年までに606台(R-R)/114台(ベントレー)、コンヴァーティブルは505台(R-R)/41台(ベントレー)が製作された。さらに、マリナー・パークウォード製2ドアサルーン/コンヴァーティブルに加えて、ジェームズ・ヤング製の2ドアサルーンも、1967年にR-R版35台+ベントレー版15台の合計50台のみ製作されている。こちらは、シルヴァー・シャドウ系の4ドアサルーン・ボディを、ほぼそのまま2ドア化したもので、H.J.マリナー製サルーンとは違ってボディパネルの多くをシャドウ/Tスタンダード・サルーンと共用していた。ちなみに、馬車時代からの名門として知られ、ロールス・ロイス/ベントレーでも数多くの傑作を残してきたジェームズ・ヤングは、この2ドアサルーンの製作を最後にコーチビルダーとしての活動を終了。戦前以来の親会社である老舗R-Rディーラー“ジャック・バークレイ”社のレストレーション部門へと業態を変えることになる。

1971年には、シルヴァー・シャドウ/Tシリーズとともにエンジンを6747ccまで拡大。トランスミッションについても、従来は北米仕様に限って採用されていたGM製ターボハイドラマティックに統一されると、マリナー・パークウォード製クーペ/コンヴァーティブルも同様の変更を受けることになった。このマイナーチェンジ版クーペ/コンヴァーティブルは、 “ガンマ”という社内コードネームのもと、1970年頃には開発を概ね終了させている。ちなみに、この時期のロールス・ロイス技術チームの新車プロジェクトは、ガンマの例と同じくすべてギリシャ文字で名づけられ、例えば“アルファ”は装甲を施したファンタムⅥ防弾仕様、“ベータ”はファンタムⅥの後継モデルだが、このプロジェクトはキャンセルに終わってしまう。さらに“デルタ”は、このあとに詳しく解説するカマルグである。そしてこの新型クーペ/コンヴァーティブルには、新たにシルヴァー・シャドウ/Tからは独立したモデルと位置づけられ、R-R/ベントレーを問わず、“コーニッシュ”のネーミングが与えられることになるのだ。これは、戦前の1939年に製作されたベントレー・マークⅤヴァン・ヴァーレン製スペシャルに端を発するネーミングが、その由来たるベントレー版のみならず、ロールス・ロイス版にも名づけられたことになる。これは、この時期にR-Rとベントレーの区分けが格段に薄くなっていた、一つの証と言えるかもしれない。

コーニッシュは、ベースモデルたるロールス・ロイス・シルヴァー・シャドウ/ベントレーTサルーンがシルヴァー・スピリット/スパー系にフルモデルチェンジを果たしたのちにも、旧シャドウ系のメカニズムを踏襲したまま継続生産されることになる。まずはそれに先立つ1976-77年に、シルヴァー・シャドウⅡと同様のモディファイを段階的に施したのち、1981年には2ドアサルーン版の生産が終了することになった。そして1987年にはエミッションコントロールに対応するためにエンジンをインジェクション化するなどのモディファイを受ける同時に、ネーミングも“コーニッシュⅡ”へと改められることになった。

さらに、1989年秋には“’90年モデル”として、前述のフューエル・インジェクションが当時最新のボッシュ・モトロニックに換装された上に、そのほかすべての機能がコンピューター管理される“コーニッシュⅢ”へと進化することになる。コーニッシュ系の命運がここまで延命されるに至ったのは、北米の消費者運動家ラルフ・ネーダーのGM社告発に端を発する世界的“安全ヒステリー”の影響で、1970年代の自動車業界でオープンカーの先行きが危ぶまれていたことと無縁ではない。つまり、一部の少量生産スポーツカーを除いてオープンモデルの将来が絶対的に悲観視されていた当時、オープンボディを持つ新型車の開発にはすべての自動車メーカーが及び腰となってしまったことから、結果として従来モデルの生産が営々と継続されたのである。

ロールスロイス&ベントレーの歴史
ロールスロイス&ベントレーの歴史
ロールスロイス&ベントレーの歴史

それはさておき、ベントレー版のコーニッシュについては、R-R版と同様1981年に2ドアサルーンの生産が終了。あとに残されたコンヴァーティブルは、'84年からRタイプ以来となるスポーティ・ベントレー伝統の“コンティネンタル”のネーミングで呼ばれることになった。これは’80年代に入って、ベントレー・ブランドの再興を図ろうとしたロールス・ロイス社の判断にほかならない。そして1987年には、R-RコーニッシュⅡと同様にエンジンをインジェクション化、さらに1989年には前述のインジェクションがボッシュのモトロニックに換装され、そのほかすべての機能がコンピューター管理される最新モデルにアップ・トゥ・デート、’90年モデルとして再デビューしているが、R-R版の兄弟車のように車名は変更されることなく、引き続きコンティネンタルとだけ呼称されていた。

誕生25周年を迎えた1992年には、コーニッシュ/コンティネンタルはファイナルモデルの“コーニッシュⅣ/コンティネンタル”へと進化を遂げるに至る。同じ年に、マリナー・パークウォードのウィルズデン工場は閉鎖されたため、このモデルからはクルー工場内に設けられた専用スペースでの生産となった。双方ともに、エクステリアについては従来モデルからほとんど変わっていないが、油圧作動だったソフトトップがより信頼性の高い電動に替えられるとともに、永らく軟質ビニール製だったリアウインドーがようやく熱線デフォッガー入りのガラス製に替えられていた。一方、エンジンはV8OHV・6747ccユニットを踏襲。時代の求めに応じてようやく4速に格上げされたGM700型オートマティック・トランスミッションと組み合わされる。しかし、ベントレー・ターボR/ブルックランズや、同時期に発売されたコンティネンタルRのATセレクターがフロア化されていたのに対し、コーニッシュⅣ/コンティネンタルは、戦後の伝統に従ってコラムシフトのまま維持されていた。他方、パッシブセーフティー対策が世界的なトレンドとなった’90年代の志向性に合わせて、ステアリングホイールにはSRSエアバッグが組み込まれることになった。

そして1995年、ファイナルバージョンとしてターボチャージャーを装着した“コーニッシュS”が25台、そしてベントレー版の“コンティネンタルS”が8台のみ製作されたのを最後に、ロールス・ロイス/ベントレー史上最も長期間にわたって生産されたコーニッシュ/コンティネンタル系は、シルヴァー・シャドウ/Tタイプのマリナー・パークウォード製クーペ/コンヴァーティブル時代を合わせれば実に28年にも及んだ長い歴史に、ついに幕を閉じることになったのである。

※生産台数(推定)
R-RコーニッシュⅠ:2ドアサルーン1108台(1971-81)
         コンヴァーティブル3239台(1971-87)
R-RコーニッシュⅡ:1226台(1987-89)
R-RコーニッシュⅢ:452台(1989-92)
R-RコーニッシュⅣ:1226台(1992-94)
 
ベントレー・コーニッシュ:2ドアサルーン63台(1971-81)
           コンヴァーティブル77台(1971-84)
ベントレー・コンティネンタル:421台(1984-94)

至高の“ダブルネーム”

1960年代の後半を迎えた時期、ロールス・ロイス社へのオーダーは、アメリカからのものが大きなパーセンテージを占めるようになっていた。必然的に、北米マーケットをメインターゲットにした新型車を開発する必然に迫られたロールス・ロイス社は、アメリカの顧客の嗜好に合わせた清新なデザインのパーソナルカーをラインナップに加える必要性に迫られることになる。それは、従来のコーニッシュでは満足できない、よりエクスクルーシヴなクーペである必要があったのだ。こういった経緯のもとに誕生した“カマルグ”は、ロールス・ロイス/ベントレー・コーニッシュをベースに、よりモダーンなボディと豪華な内容が盛り込まれたR-R最高級パーソナルクーペ。その最大のトピックは、あのピニンファリーナが正式にデザインワークを手がけたボディにあり、コーニッシュ系よりモダーンなイタリアンスタイルでまとめられたスタイリングを身上とするモデルであった。

クルーのエンジニア、エヴァーデン&ブラッチリーのコンビが編み出してきた一連のR-R/ベントレーのスタイリングは、たしかにロールス・ロイスのプレステージに相応しい品格とエレガンスを体現していたのは間違いないのだが、その一方で「古典的に過ぎる」との判断が下されていた。そして1969年、名声と実力を兼ね備えたイタリア・トリノの名門カロッツェリア、ピニンファリーナに新型モデルのデザインを依頼することになったのだ。この決定を下したのは、ハリー・グリルズの引退後に、ロールス・ロイス社のエンジニアリング・ディレクターに就任したジョン・ホーリングスである。もともとピニンファリーナとロールス・ロイス社の縁は浅からぬもので、ピニンファリーナがデザインとコーチワークを手がけたスペシャルオーダーのR-R/ベントレーは1940年代末頃から複数が存在していたほか、例えばシルヴァー・シャドウ系に関してはピニンファリーナの関与があった(たとえ潜在的であったとしても)ともいわれているものの、両社が正式な「ダブルネーム」でプロダクションモデルを製作するというプロジェクトは、この時が初めてであった。ただしコーチワークについては、北イタリア・トリノ近郊グルリアスコにあるピニンファリーナのファクトリーではなく、既にこの時期には完全にロールス・ロイス社の傘下に収まっていたマリナー・パークウォード社のウィルズデン工場にて行われることとされた。

ロールス・ロイス側からピニンファリーナに通達されたリクエストは、「既存のシルヴァー・シャドウ用プラットフォームとランニングギアを流用し、しかも最高級の名に相応しい威厳を保ちつつ、決して古臭くならないデザインを持つ4シータークーペ」だったとされている。創業以来のピニンファリーナの慣例に従って、デザインワークを担当したスタイリストの名前は公表されていないが、当時のマネージメントデザイナーであったレオナルド・フィオラヴァンティの指揮のもと、パオロ・マルティンのスケッチが採用されたというのが定説となっている。パオロ・マルティンは、1970年に製作され、同じ年の大阪万博にも出品されたデザインスタディ“フェラーリ512S‐PFモドゥーロ”でも知られるスタイリストである。ちなみに、新型R-Rクーペのデザインの実質的なオリジンとなったとされる1968年ロンドン・ショーに出品されたベントレーTサルーン・ベースのピニンファリーナ製クーペ、あるいは1970年パリ・サロンに出品されたメルセデス・ベンツ300SEL6.3ベースのピニンファリーナ製クーペは、そのディテール処理からフィオラヴァンティの前任者、アルド・ブロヴァローネの関与が推測されているが、スタイリストの独立性よりも会社全体でのデザイン感覚の統一性を重要視するピニンファリーナゆえに、その美的エッセンスは、新しいR-Rクーペのデザインワークにも充分に生かされることになるのだ。

1971年には試作車“デルタ”が完成、翌’72年から極秘のロードテストが繰り返されたのち、1975年3月、ロールス・ロイス・カマルグは大々的なデビューを果たすに至った。そのネーミングは、同じスペシャルボディ&2ドアパーソナルカーのコーニッシュが、南仏のリゾート地に由来する車名を与えられていたことに倣って、南仏プロヴァンス地方の地中海とローヌ河の二つの支流に囲まれたデルタ地帯から名づけられたものである。風光明媚なカマルグ地域はフランス最大の湿地帯にして、フランス唯一のフラミンゴの繁殖地としても知られる高級リゾート。また、カマルグ・デルタに広がる広大な塩田からは、フランスきっての高級岩塩も産出されるという。このデルタ地域の名を冠することが既に決定していたかどうかは定かでないのだが、カマルグの開発時のコードネームが上記のごとく“デルタ”とされていたのは、今となっては実に興味深い事実と言えよう。

シャーシーについては、シルヴァー・シャドウ系およびコーニッシュ系と共通のフロアユニットを流用していたが、トレッドが拡幅されたため、全幅も90mm広い1920mmとなっていた。ボディは2ドア5座のクーペのみで、コーニッシュのようなドロップヘッドクーペは用意されていない。これは、当時の時代背景を見ればやむを得ないところだろう。他方、コーニッシュの上位にランクされるモデルだけに、そのフィニッシュは当時の自動車として考え得る最上級のもの。パワーウインドー、8方向のパワーシートおよびパワーのバックレストリリースなど各種の電動アシストが盛り込まれたほか、のちにR-R/ベントレー全車に導入されることになる自動の2レベル式エアコンシステムも備わっていた。

また、シトロエン特許のハイドロニューマティック車高自動調整装置付きの全輪独立懸架をはじめ、メカニカルコンポーネンツはシルヴァー・シャドウ/コーニッシュと共通だが、V8OHV6747ccエンジンは4バレル・キャブレターや無接点式イグニッションなどの採用により、そのマキシマムパワーを8~10%ほど向上させていたと言われている。ただしこのチューニングは、直後にシルヴァー・シャドウ系およびコーニッシュ系にも施されることになった。一方、’79年3月にはコーニッシュ系とともにリアサスペンションが改良された上に、さらに’81年になるとベースモデルがシルヴァー・シャドウ系からシルヴァー・スピリット系へとスイッチ。そのV8OHVエンジンにも若干の変更が施されることになった。

カマルグは、1975年から87年の間に525台(ほかに529台説や534台説も存在する)が生産された。その内の12台は、スタンダードのカマルグの生産が1986年に終了した翌年となる’87年に、「アメリカでのロールス・ロイス発売80周年記念モデル」として限定製作されたファイナルバージョン、“カマルグ・リミテッド”である。

またベントレーのグリル&ボンネットを持つカマルグも、1985年にわずか一台のみだが、正式に製作されている(Ch./No. SCBYJ000XFCH10150)。

(第20章 了)

(監修:涌井 清春  資料提供:高山 ゆたか  編集:武田 公実)

 

 

PAGE TOP

 

無断で記事・写真の転載を禁じます
Copyright ©  WAKUI MUSEUM All Rights Reserved.