ロールスロイス&ベントレーの歴史

Pre War:第二次大戦前篇

チャプター10「“R-R”に飲み込まれた“B”」

ル・マン24時間耐久レースなどのモータースポーツに於ける伝説的な活躍や当時のスピード記録の更新は、ベントレーの名声を世界的なものとしたのは間違いない事実だろう。しかしその一方で、ベントレー社の経営は常に困窮しており、将来に希望を見出せるほどの資金を得るのは難しい状況にあった。1926年には南アフリカ出身の若きビジネスマンで、ベントレーボーイズの一人としてル・マン三連勝も果たしたウォルフ・バーナートが、ベントレー社の社長に就任。あくまでも技術者としては優秀ながら、会社経営には不向きだったW.O.に代わって、同社の舵取りを行うこととなった。しかし、1929年10月24日にニューヨーク・ウォールストリートを襲った「暗黒の木曜日」に端を発する世界大恐慌が、ベントレー社の窮状を致命的なものとすることになったのだ。また、モータースポーツへの過大な投資に加えて、ティム・バーキンの要請で50台を製作した41/2リッター“ブロワー”の製造コストも、財政に重くのし掛かっていた。さらに、1930年に発表された8リッターが、セールスの現場にてロールス・ロイス・ファンタムⅡという強力無比なライバルと競合してしまったのも、高級車市場でのブランド力に劣るベントレーには致命傷となったようだ。

間近に迫りつつあった財政破綻を回避するため、バーナート率いるベントレー社は、最もベントレーらしくない対処を余儀なくされることとなる。バーナート自らのドライブで’30年のル・マンに優勝したのを最後に、ワークスチーム+ベントレーボーイズによるレース活動から手を引いたのだ。しかも、同じ年に発表された“4リッター”は、コストダウンによりベントレー社に当座の資金を取り戻すことを主目的として製作されたモデル。W.O.時代のクリクルウッド・ベントレーとしては唯一SOHCでなく、シリンダーあたり4バルブでもない。当時のベントレーの顧客にとっては、あまりにもマイルドなトゥアラーに過ぎなかった。しかし、このようなモデルが、ただでさえ大不況に喘いでいた高級車マーケットの要求を満たせるはずもなく、わずか50台の生産に終わってしまう。こうしてベントレーの窮状には、さらなる拍車がかかることになった。そして、巨額の貸付金の返済が要求された1931年の初夏、バーナートはその支払いに猶予を求めざるを得なくなったことから、債権者たちはすべてを管財人に委ねるという厳しい判断を下したのである。

1931年の6月から11月にかけて、ベントレー社を巡って発生した事件は、まさに小説か映画のようにドラマティックなものであった。同社の管財人たちの目的はベントレー社を解散させてしまうのではなく、操業を続ける会社として、少しでも好条件で売却することだった。管財人たちは、航空エンジンの分野では当時既に高名を馳せていたロンドンの“ネイピア&サンズ”社との間に買収交渉を推し進めており、他方W.O.自身もネイピア側からの要請を受けて“ネイピア‐ベントレー”と称された新型車の開発作業に着手していたのだ。ところが、事態はまったく別の方向へと転がってゆくことになる。ベントレー社とネイピア&サンズの代表者がロンドンの法廷に買収契約を締結させるために出廷したところ、両社にとってはまったく未知の存在であった“英国中央公正信託(British Central Equitable Trust)”なる信託会社の代理人がその場に現れ、何の前触れもないまま高額のオファーとともに買収を提案してきたのだ。突然の競合相手の出現に驚愕したネイピアは、即座にそれを上回る買収条件を提出して応酬したのだが、その様子を見ていた担当判事が「ここはあくまで法廷であって、競売会場などではありません」と制して両社に自重を促したことから、後日同じ判事の立会いのもとに入札を行って買収先を決定することとなった。果たしてその入札の結果は、英国中央公正信託側が2万ポンドも上回る入札でネイピア側を打ち破ってしまう。つまり英国中央公正信託は、もともとの交渉相手であったネイピア&サン社から掠め取るようにして、ベントレー社を“強奪して”しまったのである。

しかし、W.O.を驚愕させた事実はそれだけでなかった。衝撃の入札から数日後、件の英国中央公正信託が、高値で購入したばかりのベントレー社を即座にロールス・ロイス社に譲渡していたことが判明したのだ。つまり、ロールス・ロイスこそベントレーの買収を英国中央公正信託に依頼した“黒幕”だったことになる。ロールス・ロイス社は、高性能GT(グランドツーリングカー)としての側面もあったファンタムⅡにとって強力なコンペティターとなり得るベントレーの台頭を未然に防ぐことに成功しただけでなく、レースの成功で既に高いプレステッジを誇っていたブランドと、その象徴的存在であるチーフエンジニアまでも一挙に手に入れたことになった。しかも、航空エンジンの分野では強力なライバルであったネイピアに財政的打撃を与えることも、ロールス・ロイスにとっては大きなメリットであったに違いない。しかし、このような経緯で行われた買収劇は、常に公正たることを旨としてきたロールス・ロイス社にとって、史上唯一の“ダーティビジネス”であったと見る向きがあるのも事実である。それでも、世界恐慌下のロールス・ロイス社にとっては、まさになりふり構ってはいられない状況だったと考えねばなるまい。こうして、ロールス・ロイスとベントレーは、実に70年近くにも及ぶ “結婚生活” に入ったのである。

ロールスロイス&ベントレーの歴史
ロールスロイス&ベントレーの歴史

ウォルター・オーウェン・ベントレー
ロールスロイス&ベントレーの歴史

ところで、W.O.ベントレーは自らの会社を譲渡したのちも、ロールス・ロイス社とのオプション契約に基づき3年間は同社から離れることは許されなかった。しかし、その契約期間の満了と同時に、同じ英国の高級車メーカーたるラゴンダ社のオファーに応じて、同社の主任設計者に就任することになる。そしてW.O.は、ラゴンダにてM45、LG45、そしてV12という素晴らしいスポーツカーを設計。1935年にはLG45ラピードを擁して、自身にとって通算6度目となるル・マン24時間制覇を果たすこともできたのだ。第二次大戦後は、ラゴンダ2.6リッター用に直列6気筒DOHC2.6Lエンジンを設計。そして、そのエンジンの優秀性に目をつけたアストン・マーティン社主のデーヴィッド・ブラウンは、ラゴンダ社を買収したことでできたコングロマリット、アストン・マーティン&ラゴンダ社の主任設計者としてW.O.ベントレーを迎えるに至った。その後、1950年代初頭にリタイアしたW.O.ベントレーは、1971年8月3日に天寿を全うして逝去したのである。

(第10章 了)

(監修:涌井 清春  資料提供:高山 ゆたか  編集:武田 公実)

 

 

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