ロールスロイス&ベントレーの歴史

Pre War:第二次大戦前篇

チャプター9「ベントレーボーイズの活躍」

ロールスロイス&ベントレーの歴史
ロールスロイス&ベントレーの歴史

W.O.の製作したベントレーの各モデルは、デビュー後間もない時期から当時の裕福なモータリストたちから熱狂的な支持を受けることになった。新しい技術や文化がヨーロッパに花開いた1920年代。“ベル・エポック”と呼ばれたこの時期は、自動車史の観点からは“ヴィンテージ”時代と呼ばれ、各国/各メーカーから様々なアプローチによる傑作車がリリースされた。そんな時代背景にあった当時、自動車という新時代の乗り物に魅せられた先鋭的な若者たちにとって、ベントレー・スポーツカーが生来持つ圧倒的なまでの高性能と孤高のヒロイズムは、ほかに代え難い魅力だったのだろう。当時のベントレーのカリスマ性を何より高めたのは、なんと言ってもモータースポーツに於ける大活躍である。発信者であるW.O.ベントレー自身もDFP車に高度なチューニングを施してレースに勝ったことでビジネスの面でも一定の成果を収めた経験から、モータースポーツに於ける成功が商業的にも大きな影響をもたらすと確信していたのだ。

そして、この時代の若者たちにとってのアイドル的な存在となったのが、それぞれが自腹を切って購入したベントレー車を持ち寄ってメーカー直属のワークスチームを結成、ル・マンやブルックランズなどのスポーツカーレースを席巻した“ベントレーボーイズ”たちである。“ジェントルメン・ドライバー”の代名詞とも称される彼らは、ベントレー社の創る車の魅力はもちろんのこと、W.O.ベントレーその人の穏やかな人柄にも強く惹かれた男たちだった。

ベントレーボーイズの面々は、いずれ劣らぬ個性の持ち主である。まずは、ロンドン市内にてベントレー車のディーラーを営んでいたキャプテン・ジョン・ダフ。優秀な細菌学者にして、勇猛果敢なドライバーでもあったJ.ダドリー・ベンジャーフィールド博士。ボーイズきっての美男子として人気を集める一方、スポーツマンとしてフェアプレイに徹した“ティム”ことサー・ヘンリー・バーキン。障害物競馬のスター騎手、ジョージ・デューラー。英国「AUTOCAR」誌所属のジャーナリストで、アストン・マーティンのエンブレムの作者とも言われているサミー・デーヴィス。ボートレースや飛行機によるたび重なる事故から生還し“不死身の男”と呼ばれたグレン・キッドストン。そして南アフリカのダイヤモンド鉱山主で、慢性的な経営難にあったベントレー社の会長職も引き受ける一方、ル・マンでは1928-30年まで三連勝を果たしたウォルフ・バーナート大佐など、まさに“きら星のごとき”ビッグネームが一堂に会していた。

それぞれ裕福な上流家庭に生まれ育ったベントレーボーイズだが、彼らはその地位に安住するような俗物ではなかった。高い教養と進取の気性、比類なきスポーツマンシップ、さらに熱きチャレンジングスピリットを持ったベントレーボーイズの面々は固い友情によって結ばれ、ともに数々の伝説を築き上げたのだ。そして、彼らベントレーボーイズの操縦するベントレー各モデルは、今なお世界最大・最高のスポーツカーレースと称されているル・マン24時間レースに於いて、1924年の初優勝を皮切りに、1927-’30年と総計5回もの総合優勝を飾るなどの歴史的大活躍を見せることになる。こうしてベントレーは、創成期のル・マンに於ける最強のコンストラクターと呼ばれるようになったのである。

そこでこのチャプターでは、W.O.ベントレーとクリクルウッド・ベントレー、そしてベントレーボーイズが、伝統のル・マン24時間耐久レースに挑んだ栄光の足跡を記しておくこととしたい。

1923年

この年の5月26-27日に歴史上初めて開催されたル・マン24時間耐久レース。のちにスポーツカーレースの頂点に達することになるこのイベントに、直前のブルックランズのレースで勝利したジョン・ダフ大尉は、ベントレーの実力をフランスでも披露すべく、自身の経営するディーラー「ジョン・ダフ商会」名義で、一台の3リッターをエントリーさせた。

あいにくの雨となった“シルキュイ・ド・ラ・サルト(サルト・サーキット)”に現われたマシンは33台。ほとんどは地元フランス車で、英国車はダフのベントレー3リッターただ一台であった。彼らは建前上ではプライベーターだったが、そのマシンはクリクルウッドのベントレー社内にて用意されたもの。ダフとコンビを組んだ第二ドライバーも、ベントレー社の実験部長で、社内最強の腕利きドライバーとして鳴らしたフランク・クレメントであった。ただW.O.自身は、24時間レースという過酷なチャレンジについて、かなり悲観的な予想をしていたというのが興味深いところである。

カーナンバー8のベントレー3リッターは、前輪ブレーキを装着していないためウェット路面では不利を強いられたが、それでも序盤からレースをリード。スタート後2時間を過ぎた時点では、この年のコースレコードである平均107.328km/hのスピードをマークしてみせる。ところが、夜になって跳ね石のためヘッドライトを片方失ってしまったこと、さらにはガソリンタンクの故障で燃料漏れを起こしてしまったことから後退を強いられ、結局4位入賞に終わる。ちなみに第一回ル・マンの優勝車は、地元フランスからエントリーしたシュナール・ワルケルだった。

1924年

前年、惜しいところで栄光を逃したジョン・ダフとベントレーは、雪辱を期して、再びサルテ・サーキットに一台の3リッターを持ち込んだ。ダフと組んだドライバーは、前年と同じクレメントであった。前年の挑戦でW.O.自身もル・マンと24時間レースの魅力にとり憑かれたことから、メーカー挙げてのバックアップ体制が整い、前年の教訓から前輪にもブレーキを装着。ヘッドライトにもストーンガードを取り付けるなど、当時考えうる限りの磐石の態勢を組んで二度目のサルト・サーキットに臨んだ。

レース序盤は、前年の勝者ラガシュ/レオナール組のシュナール・ワルケルがリード。その後もロレーヌ・ディートリッヒなどフランス勢の先行を許すが、日曜の朝になってダフ/クレメント組のベントレーはトップに立った。しかし、彼らのマシンもギアボックスのトラブルなどの不安を抱えていたのだが、その後2位を走っていたロレーヌの後退によって、ついにル・マン初優勝を果たした。この年の完走はわずか14台。凄まじいサバイバルレースで、ベントレーは、その性能と体力を示したのである。

1925年

ライバルから追われる立場となった1925年のル・マン。この年からイタリアのディアットやOM、アメリカのクライスラー、そしてベントレーと同じイギリスからもサンビームやオースティンが、こぞってワークスマシーンを送り込んできた。第3回にして、ル・マン24時間レースは世界的なビッグイベントとして認知され始めたのだ。ベントレーも、初めて複数のマシンを擁してワークスエントリーを果たした。一台は、前年の覇者たるダフ/クレメント組。そしてもう一台には、この年が初参戦となるベンジャーフィールド博士と、ベントレー社のサービスマネージャーである、“バーティ”ことハーバート・ケンジントン・モイアがコンビを組んで乗ることになった。

ところがこの年のル・マンは、W.O.の期待に反して惨憺たる展開となってしまう。まずは19周目に“バーティ”が燃料消費の計算ミスのため、ピットに戻ってこられずコース上でストップ。残されたダフ/クレメント組の3リッターも、64周目にSU型キャブレターの片側のフロートが破損、漏れ出したガソリンが引火してマシンを傷め、リタイアを余儀なくされてしまったのだ。なお、この年の優勝はロレーヌ・ディートリッヒに乗るクルセイユ/ロシニョール組であった。

1926年

再び挑戦者の地位に転落してしまった1926年のル・マン24時間。雪辱を誓った3台体制でシルキュイ・ド・ラ・サルトに乗り込んだベントレー・ワークス+ベントレーボーイズだが、この年も彼らにとってはタフなレースが待ち受けていた。

まずは72周目に、デューラー/クレメント組がエンジンのバルブに起きたトラブルでリタイア。次いで105周目には、トミー・システスワイト/クライヴ・ギャロップ大尉組の3リッターも、同じくバルブのトラブルによって戦列を離れることになった。そして唯一生き残り、3位で走行していたサミー・デーヴィス/ベンジャーフィールド博士組も、ゴールまであと30分を切った138周目にクラッシュ、リタイアを余儀なくされてしまったのだ。

この年の優勝車は前年に引き続いてロレーヌ・ディートリッヒB3-6。同車の平均スピードは、ついに100km/hの壁を越える106.350km/hをマークした。もとより耐久レースであるル・マンに、スピードレースとしての側面も見え始めたのである。

1927年

サルト・サーキットに於けるたび重なる屈辱を晴らすべく、ベントレー・チームは1927年のル・マンに、 この年に発表されたばかりの 41/2リッターのプロトタイプ を、 ほかの2台のワークス3リッターとともにワークスエントリーさせた。バーナート会長からこの41/2リッター一号車を託されたクレメント/カリンガム組は、8分46秒というファステストラップを叩き出す素晴らしいペースでレースをリードするが、まだ序盤の35周目に“メゾン・ブランシュ”コーナーで発生した、トップグループを走る3台のワークス・ベントレーすべてが絡むアクシデントに巻き込まれて、リタイアを余儀なくされてしまう。

一方、同じ事故に巻き込まれた2台の3リッターのうち、フランス人ドライバーのアンドレ・ド・エアランガー男爵/デューラー組もリタイアを喫したのだが、残る1台、ベンジャーフィールド博士/デーヴィス組は、前述のクラッシュで歪んだシャーシーのまま果敢にレースを継続。ベントレーにとっては4年ぶりとなる総合優勝を果たした。

1928年

1928年のル・マンに、ベントレー・ワークスチームは3台の41/2リッターをエントリーさせた。 その内の2台は完全な新車。それぞれクレメント/ベンジャーフィールド博士組、“ティム”バーキン/ジャン・シャサーヌ組に託された。 そして残る1台は、前年の“メゾン・ブランシュ”に於ける事故のダメージを修復し、なんとか復帰を遂げた 41/2リッター第一号車 である。 2台の新車をサポートするかたちでエントリーしたこのリビルド車に対して、ベントレー・チームのメンバーやベントレーボーイズたちは、 愛情を込めて「 オールド・マザー・ガン(Old Mother Gun) 」というニックネームを進呈することになった。

この年は、ウォルフ・バーナートが“オールド・マザー・ガン”のドライバーとして、ル・マン初挑戦を果たすことになった。また、バーナートの相棒として“オールド・マザー・ガン”に乗ったバーナード・ルービンにとっても初めてのル・マン24時間であった。バーナートといえばベントレー社のトップであり、もし本人が望むなら最新マシンを優先的に使用する特権もあったに違いないのだが、フェアプレイ精神に溢れる彼はチームに複数のマシンがあれば、わざわざ最も不利な一台を望んで引き受けるような、真のスポーツマンだったのだ。ところがこの年のサルト・サーキットでは、期待された2台の新車が次々とトラブルに見舞われてしまう。2台とも、過酷なコースとスピードのもたらす振動によってシャーシーにクラックが入り、やむなくリタイアとなったのである。

しかも、ただ一台のみ生き残った“オールド・マザー・ガン”にも同じフレームトラブルが忍び寄っていたのだが、バーナートは勇猛果敢なドライブを続行して、この年のライバルとなったスタッツ・ブラックホークを相手にサルテ・サーキットのコースレコードを次々と書き換える激しいスピードレースを展開。そして、ルービンの適切なサポートも相まって、見事ベントレーにとっては2連勝となる総合優勝を飾るに至ったのである。

1929年

1929年のル・マンは、W.O.ベントレーとベントレーボーイズたちにとって、間違いなく史上最高のレースであったに違いない。 もはや盟主としての風格さえ漂わせていたベントレー・ワークスチームは、 前年の覇者バーナートと“ティム”バーキンの乗る最新の6気筒6.6Lモデル “61/2リッター・スピードシックス” に加えて、 ジャック・ダンフィー/グレン・キッドストン組、ベンジャーフィールド博士/ド・エアランガー男爵組、クレメント/シャサーヌ組、そしてもう一人の前年の覇者ルービン/ハウ卿組からなる4台の41/2リッター、つまり総計5台の大体制を組んでエントリーした。この年のライバルは、前年の上位入賞で勢いを得たスタッツ、クライスラーなどのアメリカ勢であった。

この5台のベントレーのうち、ルービン/ハウ卿組のカーナンバー11のみはわずか7周目で、ダイナモのトラブルでリタイアしてしまうが、残った4台は素晴らしい快走ぶりを見せてレースを圧倒する。特にバーナート/バーキン組のスピードシックスの速さは、まさに別次元的と言うべきもので、18周目にはバーキンがこの年のファステストラップとなる7分7秒(平均速度137.929km/h)をマーク。結局ゴールまでに2843.830kmを走破して堂々の総合優勝を得た。

しかも2位以降もダンフィー/キッドストン組(マシンは3度目のル・マンとなった“オールド・マザー・ガン”)、ベンジャーフィールド博士/ド・エアランガー男爵組、クレメント/シャサーヌ組の順で3台の41/2リッターがフィニッシュ。ベントレー・ワークスチームがトップ4を独占してしまうという、まさに“ル・マンの王者”の称号に相応しい結果となったのである。

1930年

通算4勝の戦果を引っさげてル・マンに乗り込んできたベントレー・ワークスチームは、この年3台のスピードシックスをエントリー。まずバーナートは、前年の優勝から“オールド・ナンバー・ワン”というニックネームで呼ばれることになった愛車スピードシックスで、キッドストンとのコンビで出場。加えてクレメント/リチャード・ワトネィ組、サミー・デーヴィス/クライヴ・ダンフィー(ジャック・ダンフィーの兄)組もワークスのスピードシックスで参戦した。

しかし、この年のル・マンではベントレー・ワークスの前に新たなライバルが現れた。“ティム”バーキンの主導で開発し、当時のイギリスで最も裕福な若者の一人と称されていた貴族、ミス・ドロシー・パジェットによってエントリーされたベントレー41/2ブロワーである。このマシンももちろんベントレーのファクトリーにて製作されたのだが、この時期になるとベントレー社の財政もかなり逼迫していたので、W.O.はワークス体制でのエントリーについては断っていた。そこでバーキンは、必死の説得でミス・パジェットからの支援を取り付け、バーキン/シャサーヌ組とベンジャーフィールド博士/ジュリオ・ランポーニ組の二台体制で、なんとかル・マン参戦に漕ぎつけたのだ。しかし、バーキンの野望は脆くも崩れることになった。彼は6分48秒の最速ラップタイムをマークする健闘を見せたが、2台の“ブロワーベントレー”のエンジンはともに重大なトラブルを発生。日曜の午後に相次いでリタイアを喫してしまったのである。

それでも、ベントレーの権威は“オールド・ナンバー・ワン”を筆頭とする2台のスピードシックスが守り通すことになる。この年のル・マンに現れた最強のライバル、メルセデス770SSに乗るカラッチオラ/ヴェルナー組との10時間に及ぶバトルに打ち勝ったバーナート/キッドストン組は、ベントレーにとって通算5回目となる総合優勝を獲得。2位にもクレメント/ワトネィ組が入賞し、W.O.とベントレーボーイズの最後の栄光に華を添えた。特にウォルフ・バーナートは3回のみ参加したル・マンのすべてで総合優勝、つまり勝率100%という素晴らしい記録を残すことになったのだ。

ところがこの輝かしい栄光の陰で、慢性的な経営難に喘いでいたベントレー社とバーナート会長は、厳しい選択を強いられることになってしまっていた。そして、同じ1930年の8月、ベントレー・モーターズ社は「ワークス体制でのレース活動から完全撤退する」というコメントを発表したのである。それはベントレーにとって、そしてベントレーボーイズにとっても、一つの時代が終わることを意味していた。

サーキットを離れたボーイズたち

“シルキュイ・ド・ラ・サルト(ル・マン:サルト・サーキット)”での栄光はもちろんのこと、ブルックランズやT.T.(トゥーリスト・トロフィー)など、英国内で開催されるレースでも素晴らしい戦果を挙げたベントレーボーイズだが、彼らのベントレーへの愛は、モータースポーツ以外のステージでも存分に発揮されることになった。1930年3月、ウォルフ・バーナートがプライベート用の愛車であるベントレー6リッター“スピードシックス”のガーニイ&ナッティング製スポーツサルーンを駆って、1930年代のフランスにて運行されていた花形寝台特急“トラン・ブルー(ブルートレイン)”に賭けレースを挑んだのは、その最たる例と言えるだろう。そして、バーナートとスピードシックスは南仏カンヌ-ロンドンRACクラブ間のルートを、実に約4時間もの大差をつけて快勝して見せたのだ。このように、それぞれのメンバーが、愛用するクリクルウッド・ベントレーとともに様々な冒険を繰り広げたことで、彼らベントレーボーイズのカリスマ性はさらに高まった。

また、イギリス国内はもちろん、南仏リヴィエラのビーチやスキーリゾートでも賑やかなパーティを愛してやまなかったベントレーボーイズは、1927年のル・マン優勝の際には優勝マシンをロンドンのサヴォイ・ホテルの館内に持ち込んで座の主役とするという、当時としてはかなり大胆な楽しみ方もしていた。そんなベントレーボーイズたちのことだから、当然のことながらレディたちからの人気も大変なもので、1929年のル・マン優勝を記念するパーティの“座興”として行われた女性限定のくじ引きゲーム大会では、彼らにそれぞれの愛車ベントレーで次回のパーティ会場まで“エスコート”してもらう権利が商品として懸けられたという。ちなみに、この時に一位の“景品”とされたのは、ベントレーボーイズきってのハンサムボーイ、しかも独身貴族だったティム・バーキンが“オールド・ナンバー・ワン”とともにエスコートするというもの。二位はカーナンバー“9”の41/2リッターに、キッドストンないしはダンフィーのいずれかの組み合わせだったという。

しかし、すべてのパーティに終わりがあるように、ベントレーボーイズの輝かしい日々にも終焉のときが訪れることになった。しかも、それは意外なほどに早くやってきたのだ。1930年8月をもって、ベントレー社はモータースポーツ活動を休止。さらに翌’31年末をもってベントレー社がロールス・ロイス社の傘下に入ると、ベントレーボーイズを構成していた大部分のメンバーも本来の生業へと戻っていった。そしてリーダー格の一人で、かつては“不死身”と称されたグレン・キッドストンが航空機事故でこの世を去ったこともあって、ベントレーボーイズは、事実上の解散状態となってしまったのである。

しかし、前年の惨敗からル・マン24時間レースの制覇に格別の執念を示していたティム・バーキンは、その後もレース活動を継続させた。そして、1931年には苦渋の決断をもって愛機をアルファロメオ8C2300ル・マンにスイッチ、同じくベントレーボーイズのメンバーだったアール・ハウ卿とのコンビで自身にとって2度目にして最後となるル・マン制覇を達成した。ところが、そのバーキンも1933年トリポリ・グランプリで負った火傷にマラリアを併発させたことから、敗血症を発症。命を落としてしまうことになるのだ。ティムの最期を看取ったのは、医師であり盟友でもあったベンジャーフィールド博士であった。

一方、ロールス・ロイス傘下入りにともなってベントレー社の経営から手を引いたウォルフ・バーナート大尉は、モータースポーツへの興味も薄れたようで、自らステアリングを握ってレースに参加することはなくなっていた。しかし、のちにジャガーにて名エンジニアと称されることになるウォルター・ハッサンの協力を得て、旧ベントレー8リッターをベースに製作した“バーナート・ハッサン・スペシャル”などのモンスター的レーシングマシンを擁し、ベントレーボーイズのメンバーたちを乗せてブルックランズのレースに限ってはエントリーを続けていた。ところが、1932年末に開催された500マイルレースにて、バーナート所有のマシンに乗ったクライヴ・ダンフィーが不幸な事故死を遂げたこともあって、バーナートのレースに対する関心は、完全に失われてしまうことになったのである。

こうしてベントレーボーイズは、歴史の中の一ページと化した。しかし、彼らが鮮烈に駆け抜けた栄光の季節は、今なおベントレー・ファンを魅了してやまないのである。

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(第9章 了)

(監修:涌井 清春  資料提供:高山 ゆたか  編集:武田 公実)

 

 

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