ロールスロイス&ベントレーの歴史

Pre War:第二次大戦前篇

チャプター6「W.O.時代のベントレー」

ロールスロイス&ベントレーの歴史
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ウォルター・オーウェン・ベントレー自身が設計・開発を手がけ、1921年から1931年までのわずか10年、総計3048台のみが生産されたベントレー車たちは、生みの親の名を取って“W.O.ベントレー”、あるいは本社工場所在地の地名から“クリクルウッド・ベントレー”とも呼ばれている。この時代に生産されたすべてのベントレー生産車には、ベントレー社自身による5年保証が付けられていたが、このことからも、W.O.ベントレーがいかに自社の製作した車の信頼性と堅牢さに自信を持っていたかがうかがわれるだろう。

1919年10月のロンドン自動車ショーにて発表。そののち2年近くにも及ぶ研究・開発期間を経て、21年に正式発売された記念すべきデビュー作 “3リッター(3Litre)” は、なによりパワーユニットに重きを置くW.O.のテクノロジー的意向が旗幟鮮明に生かされた設計となっていた。その4気筒エンジンは、当時最新の航空エンジン技術がふんだんに投入されたクロスフローのSOHC。バルブ本数は気筒あたり4本(吸/排気ともに2本ずつ)とされた。ボア×ストロークは80×149mmで、排気量は2996cc。二基のSU式キャブレターとの組み合わせで65Hpのパワーを発生、同時代の3L級ヴィンテージ・スポーツカーの水準から見ても充分に優秀と言える80mph(約128km/h)以上の最高速をマークした。さらに、点火システムもバッテリー+コイルに加えて、航空機エンジン仕込みのマグネトー式を追加した2系統とされたことで、持ち前の信頼性をさらに高いものとしていた。

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一方シャーシーについては、かつてグレート・ノーザン鉄道で見習いエンジニアとして学んだ経験からか、 コンヴェンショナルで堅牢な造りを旨としていた。サスペンションは前後とも半楕円リーフによるライブアクスルで、 これも当時のセオリーに従ったものである。 しかし、頑強なラダーフレームゆえの剛性の高さ、そして各部に上質なマテリアルと入念な組付けを行ったことから、 ロードホールディングやハンドリングにも優れていたほか、特に前輪ブレーキを持つモデルでは制動力の面でも高水準を示し、 その後の高級ヴィンテージ・スポーツカーたちにとっての大きな指標となった。 また、1923年には圧縮比アップと気化器の大径化で80Hpにパワーアップした “スピードモデル” も用意された。3リッター、特にスピードモデルはル・マン24時間耐久レースをはじめとするヨーロッパ中のビッグレースで活躍する一方、ヴィンテージ期のイギリスを代表するスポーツカーとしても、当時の裕福なモータリストたちから大好評をもって迎えられることになった。1920年発行の自動車専門誌「AUTOCAR」では、ベントレー3リッターをして「ストリートでも走ることのできるレースカー」と手放しで評価している。デビュー当時の販売価格は、ローリングシャーシー状態の標準モデルでも£1050と極めて高価だったが、それでも1929年にカタログから消えるまでの8年間に、スピードモデルを含めて1622台という、満足すべき台数の3リッターが生産されたのである。

W.O.のつくる車は、まるで蒸気機関車のように雄々しく、底知れぬパワーに満ち、そして当時の3Lクラス市販車の常識から見れば恐ろしく速かった。しかも、ヴィンテージ期のほかのスポーツカーには望めなかった頑強さも備えていた。またワイルド&プリミティブだが機能美に溢れる外観や、麻縄を巻いたステアリングに大径の計器類がずらりと並ぶインテリアなど、視覚的にも野趣に満ちた魅力は、自身が熱心なエンスージアストであるW.O.のテイストが生かされたものだったのだ。そもそもW.O.ベントレーは、自らのクルマを富裕層向けのラグジュアリーカーにしたいとは、微塵も考えてもいなかったという。処女作たる3リッター、そしてその後継車となった各モデルは、当時としては極めて高価な超高級車ではあったものの、同時に紛れもないピュアスポーツだったのである。

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しかし一般のモータリストからは、その価格からどうしても高級車と見なされてしまっていたベントレーには、 さらなるパワーとスムーズネスを求めるリクエストが強かったようで、1926年には6気筒6.6Lエンジンを搭載する “61/2リッター” が発表された。 この新型エンジンは、SOHC+気筒あたり4バルブという3リッターの基本設計を踏襲したまま6気筒化したもので、ボア×ストロークは100×140mm。総排気量は6597ccで140Hpを発生するとされた。 W.O.を筆頭とするベントレー社サイドでは、当初4気筒レイアウトを守ったまま排気量拡大を考えていたとされるが、 当時の高級車市場にて既に絶対的な評価を得ていたR-Rファンタムの影響から、 よりスムーズな上にさらなる排気量アップも見込める6気筒化に踏み切ったとされている。 デビュー当初の61/2リッターは、当時のベントレー購買層の中でも、3リッターのパワーでは少々心許ない、 豪奢で重いコーチワークを要求するカスタマーの要望に応えるためのモデルとされていた。 とはいえ、そこは“硬派”として鳴らしたクリクルウッド・ベントレーのこと、61/2リッターが発表された2年後となる1928年には、 大径化したツインSUキャブレターを装着する一方、圧縮比を5.3:1まで高めたことで 180Hpを発生するスーパーバージョン、“スピードシックス”  も追加されている。61/2リッターは、182台のスピードシックスを含めて545台が生産された。

さらに翌’27年になると、新世代の4気筒モデル “41/2リッター” が追加されることになる。 従来の3リッターと同じく、直列4気筒SOHC16バルブのパワーユニットを持つが、その内容は61/2リッター用の6.6L6気筒から2気筒を省いたものに近く、100×140mmのボア×ストロークから4398ccの排気量を獲得。マキシマムパワーは110Hpと発表された。この41/2リッターは、W.O.の設計したベントレーの中でも最もバランスに優れたモデルと称され、発表の二年後には世界的不況に見舞われつつも高い評価を獲得、クリクルウッド・ベントレーが終焉を遂げる1931年までに545台が製作されるに至ったのだ。

そして1929年には、41/2リッター“ブロワー”が登場することになる。傑作41/2リッターにヴィリヤーズ社製のルーツ式スーパーチャージャーを装着、175-180Hpを発生する恐るべきスーパーバージョン。エンスージアストの間では“ブロワーベントレー”とも呼ばれ、今なおW.O.ベントレーの代名詞的存在として敬愛される超弩級スーパースポーツである。ところがこのアイデアは、ベントレーボーイズの主要メンバーで、ル・マン24時間レースに於ける優勝経験も豊富な“ティム”・バーキンの主導によるものであり、実はW.O.自身はスーパーチャージャーの装着にはあまり積極的ではなかったとのエピソードも残されている。果たして、その最大の目的たるル・マン24時間レースでこそ、同じベントレーボーイズの“身内”であるウォルフ・バーナート会長のスピードシックスに阻まれて優勝には至らなかったが、ル・マン以外のハイスピードレースでは目覚しい成果を挙げることができた。しかし、当時のレギュレーションが要求する50台(+“バーキン・カー”と呼ばれる5台のレーシングバージョン)の“ブロワー”を特別に少量生産するコストが意外なほどにかさんだことから、ベントレー社の屋台骨まで蝕む結果となってしまう。

さらに1930年には、ベントレー史上最大のモデルである“8リッター”がデビューすることになる。そのエンジンは、61/2リッター用ユニットのボアを110mmに拡大した6気筒。7983ccの排気量から220Hpを発生した。8リッターには、いかにもベントレーらしいトゥアラーのほかにも、豪壮なスポーツサルーンやリムジーンなどのボディが組み合わせられ、従来のベントレーには欠けていると見られていたショーファードリヴンのフリートユーザーなど、新しい顧客層への希求力が見込まれていた。しかし、1929年の大恐慌にともなう世界的な不況もあって、8リッターの販売がベントレー経営陣らの目論見どおりにいくことはなく、生産台数はわずか100台に終わってしまった。そして、もとより決して順風満帆ではなかった同社の経営状態は、この時期もはや独力では回復することができないほどシビアな状況に落ち込んでしまっていたのである。

(第6章 了)

(監修:涌井 清春  資料提供:高山 ゆたか  編集:武田 公実)

 

 

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