ロールスロイス&ベントレーの歴史

Pre War:第二次大戦前篇

チャプター5「大西洋の向こうで作られたR-R」

1919年のこと、ロールス・ロイス社は40/50HPシルヴァー・ゴーストの大きな市場であり、当時輸入車に高額の関税を課していたアメリカ市場への対策として、アメリカ北部マサチューセッツ州スプリングフィールドに“Rolls-Royce of America Inc.”社を開設した。第一次世界大戦中に、ロールス・ロイスの航空機用エンジンが北米のパッカード社などでもライセンス生産されたことから、アメリカにはロールス・ロイスの要求する技術水準を満たした職人が数多く育成されていたことも、同社が北米に進出する大きな動機の一つであった。

“アメリカン・ロールス”と称された北米R-Rは、1921年からシルヴァー・ゴーストの生産を開始させることになった。北米製のロールス・ロイスは、シルヴァーゴースト時代およびファンタムⅠ時代を通じて、ル・バロンやブリュースターなど当時のアメリカを代表する名門コーチビルダーが製作するスタンダードボディのみの販売体制とされていた。そして、1926年にはブリュースター社を買収し、以後は同社がすべてのアメリカン・ロールスのボディを製作することになった。また、そのエクステリアデザインについてもイギリス本国で生産されるシルヴァー・ゴースト/ファンタムとは著しく異なり、キャディラックやパッカードなどのアメリカ製高級車とも見紛うごとき華やかなものとなっているのが特徴であった。特にファンタム時代には、当時のアメリカ人の好んだウェストラインの高いプロポーションとするため、実はラジエーターグリルの天地を1インチだけ高くしていた。

こうして、1921年から’26年までに1701台の LHD(左ハンドル)仕様のシルヴァーゴースト が生産されたのだが、「たとえ高額の関税込みであろうと英本国製のロールス・ロイスが欲しい」というアメリカの富裕層たちのスノビズムと購買意識をつかみきれなかったことから、アメリカ製シルヴァー・ゴーストは、少なくとも商業的には成功と言い難い結果に終わってしまう。しかもそのシビアな状況は、1926年にアメリカ製ファンタムⅠがデビューしたのちも大きく変わることはなかったのだ。

ロールスロイス&ベントレーの歴史
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1925年春に、英本国でファンタムⅠにモデルチェンジが行われると、しばしのタイムラグののち、スプリングフィールドの生産もファンタムⅠに移行することになった。アメリカン・ロールスのファンタムⅠは、LHDであること以外は英本国製モデルと大きな変更点はなかったが、ファンタムⅡで採用される一括給油システムが、一歩先んじて搭載されているのが特徴であった。そして、このファンタムⅠの時期にアメリカン・ロールスは、ごく短い最盛期を迎えることになる。1928年には約400台のファンタムⅠがスプリングフィールド工場をラインオフしたのだが、翌’29年になると世界恐慌の影響を受けたこともあって生産台数は100台まで激減。しかも、同じ年にイギリス本国では新型車ファンタムⅡに移行していたことから、もはや旧型車となってしまったアメリカン・ロールスのファンタムⅠは壊滅的な状況を迎えてしまう。それでも、北米市場での停滞について既に諦観視していたロールス・ロイス首脳陣は、北米工場に於けるファンタムⅡへの代替わりを最後まで行わず、英国ダービーの本社工場にて特別に製作した172台のLHD仕様ファンタムⅡをアメリカに輸出して急場をしのぐことにしたのだが、旧型車であるファンタムⅠの生産は滞ったまま、結局1931年には事実上の終焉を迎えるに至った。そして1933年には、残ったコンポーネンツによる組み立ても完全に終了したことで、アメリカ生産のロールス・ロイスはその短い歴史を閉じることになったのである。

その後Rolls-Royce of America社は、当時最も入手しやすく、ジェンセンなどのスペシャルカーのベースとしても供用されたフォードV8用シャーシー/エンジンを流用し、特製のボディを架装した車を少量生産、依然として北米では充分なネームバリューのあった“ブリュースター”ブランドで販売する企画も立ち上げたが、そのプロジェクトも実を結ぶことはなく、1935年8月をもって自動車の生産からは完全に手を引くことになった。

(第5章 了)

(監修:涌井 清春  資料提供:高山 ゆたか  編集:武田 公実)

 

 

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