ロールスロイス&ベントレーの歴史

Pre War:第二次大戦前篇

チャプター3「The Best Car in the World」

ロールスロイス&ベントレーの歴史
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1906年のロンドン・オリンピア・ショーで、ヘンリー・ロイスは従来の6気筒モデル“30HP”に代わるシリーズ最上級車として、新たなる6気筒モデルをデビューさせた。そのニューモデルは、いかにもヘンリー・ロイス作品らしく、コンヴェンショナルな設計ながらトータルバランスについて入念な配慮がなされたもの。そして良質なマテリアルと、驚くほどに高度な工作精度で製作された新型車は、当時のガソリン自動車の中でも抜群に静粛かつスムーズな走行性能と卓越した耐久性を獲得することになる。創業以来のロールス・ロイスの慣例に従って、課税馬力「40/50HP」をそのまま正式なネーミングとして発表されたこのモデルこそ、ロールス・ロイスの圧倒的な名声を確立した名車として、今なお世界中からの尊敬を一身に集める存在なのである。

その成り立ちは、135.5インチないしは143.5インチのホイールベースをもつ全鋼製ラダーフレーム+フロント:半楕円リーフ/リア:3/4楕円リーフ(後期型はカンチレバー型に変更)のシャーシーに、30HP用を大幅に改良した水冷直列6気筒エンジンを搭載したもの。このエンジンは、エドワーディアン期としては当たり前のサイドバルブ式。ブロックは3気筒ずつの2分割でシリンダーヘッドもデタッチャブル(非分離式)と、当時の設計セオリーから一歩も出ていない。しかし、その精度やフィニッシュ水準の高さは驚嘆すべきレベルのもので、例えば通常の車なら安価な鋳鉄で済ましてしまうようなパーツについても、ニッケル鋼による鍛造品をふんだんに使用したほか、すべての摺動部はフリクションロスを最小限に抑えるために、まさに“顕微鏡レベル”まで磨きこまれていた。さらにはオイル潤滑についても、細部にわたって入念な設計とされていた。そのボア×ストロークは114.3×114.3mmのスクウェアで、総排気量は7036cc。ヘンリー・ロイスが自ら設計した自社製キャブレターが組み合わされた。エンジンの回転数はパワーピーク時でもわずか1800rpmに抑えられた一方、200rpmでもスムーズに走行可能という、かなり低速トルク重視型のエンジンに仕立てられていた。また、パワースペックについては、当時既に存在したロールス・ロイスの慣例に従って“必要にして充分”としか伝えられていなかったが、初期モデルで48~50Hpだったと言われている。

こうして誕生に至った40/50HPは、一般的には“シルヴァー・ゴースト”の愛称で知られているが、あくまで厳密に言うなら、すべての40/50HPモデルが“シルヴァーゴースト”というわけではなかった。発表の翌年、1907年夏にロールス自身やクロード・ジョンソンらの運転により、イギリス王立自動車クラブ(RAC)の記録担当者を同乗させた40/50HP型のテストカー「シルヴァー・ゴースト」が、ロンドン-グラスゴー間を往復する約15000マイルの過酷な連続耐久ロードテストに挑戦。見事ノートラブルの走破に成功したのだが、その際のテストカーが全身くまなく白銀にペイントされていたことから命名されたペットネーム「シルヴァー・ゴースト」が、そのまま40/50HPモデル全体の車名として用いられることになったのだ。また、1911年以降のシルヴァー・ゴーストは、パルテノン神殿型ラジエーターの頂点に、羽根を広げた精霊像「スピリット・オブ・エクスタシー(Spirit of Ecstasy)」、いわゆる「フライングレディ」を設置することになった。これは、ロールス・ロイスの広告イラストも手がけていた画家、チャールズ・サイクスによってデザインされたものが原型とされている。そのモデルとなったのは、ロールスやジョンソンとも旧知の仲であったRAC幹部ロード・モンタギューの秘書、ミス・エレノア・ソーントンであるという説が濃厚なのだが、その真偽のほどは定かでない。

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デビュー当初「世界最高の6気筒車」のキャッチフレーズで売り出されたシルヴァー・ゴーストは、極めて高価ではあったものの、商業的にも大きな成功を収めることになる。のちには「6気筒」という文言を除いて「世界最高の自動車:The Best Car in the World」という有名なフレーズを名乗るようになり、最高級車の代名詞として世界各国の王侯貴族や富豪に愛用されることになるのだ。わが国でも1920年から2台のシルヴァーゴーストが大正天皇の御料車として使用されることになった。また、シルヴァー・ゴーストを愛用したユーザーの中には、あの“アラビアのロレンス”ことトーマス・エドワード・ロレンス大尉もあった。自動車とオートバイをこよなく愛したことでも知られる彼だが、その晩年に受けた「最も欲しいものは何か?」という問いかけに対して「R-Rシルヴァー・ゴーストとその一生分のタイア」と答えた、というエピソードはあまりにも有名である。

シルヴァー・ゴーストのデビュー以後、ロールス・ロイス社は生産モデルのリストラを暫時敢行し、同社のラインナップはシルヴァー・ゴースト1種のみに絞り込まれることになった。そして1910年には、ストロークを126.0mmに延長することによって、総排気量を7428ccまで拡大するなどのマイナーチェンジが施されてはいるものの、1925年まで19年間もの長期に渡って6173台ものシルヴァー・ゴーストがラインオフされるに至ったのである。

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シルヴァーゴーストの成功によってロールス・ロイス社の名声が確固たるものとなったことは間違いないところだろう。ところが、その高い評価の傍らで同社の開祖たる二人の“R”には、相次いで不幸な運命が襲い掛かることになる。まずは第一の“R”、1898年に初めて気球に乗って以来、熱心な飛行家でもあったC・S・ロールスに起こった不幸について語らねばなるまい。貴族飛行家にして同じくレーシングドライバーとしても名を馳せたブラバゾン・オブ・タラ卿に次いで、イギリスで二人目の公認パイロットとなる一方、飛行機の発明者たるライト兄弟とも親交を結んでいたなど、飛行機とその操縦に熱中していたチャールズ・ロールス卿は、1910年7月12日に「ボーンマス国際飛行大会」にエントリーしたのだが、その競技中に発生した不幸なアクシデントにより墜落死してしまったのだ。

一方、もう一人の“R”ヘンリー・ロイスは、ロールスが夭折した翌年となる1911年に大腸ガンが発見されてしまうのだが、幸い早期の発見だったため、緊急手術を受けて辛うじての小康を得た。それ以後のロイスは、イングランド南部や南仏リヴィエラなど気候の良い地域に構えた別荘で転地療養を続けながらも、ジョンソンやクレアモントら優秀な経営陣の助けを借りることで、ロールス・ロイス社のエンジニアリングと経営の両方面で舵取りを続けることになる。特に、もともとはチャールズ・ロールスの片腕であったクロード・ジョンソンは、ロールス亡きあともロールス・ロイス社に残り、実に献身的な働きを続けた。今なおジョンソンをして「ROLLSとROYCEの間に入る“ハイフン”の役割を果たした」と言わしめるのは、親友ロールスの遺志を受け継ぐ傍らでロイスの技術力を最大限に引き出し、ロールス・ロイス社を超一流のブランドへと育て上げたからと見る歴史家は少なくない。中でも、第一次世界大戦の開戦にともなって実行された航空機用エンジン分野への進出は、ジョンソンの下した経営判断の中でも、最も重要なものの一つだったと評価されている。そののち航空エンジン部門は、乗用車生産と並ぶロールス・ロイス社のもう一方の主軸へと成長してゆくことになるのだ。

(第3章 了)

(監修:涌井 清春  資料提供:高山 ゆたか  編集:武田 公実)

 

 

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