1998 Bentley Azure

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1998 Bentley Azure   Information

 年式1998
 メーカー Bentley
 モデル Azure
 ボディータイプ D.H.C.(Drop Head Coupe)
 ボディーカラー Green
 内装 Cream Leather
 付加情報 
 

オープンカーの魅力は単に風を切って走る時の爽快感だけではない。梅雨明けの空の青さも、秋の夕焼けの茜色も、冬の澄み切った夜空の星の多さも、屋根という存在がないだけに、自分の上に思う存分広がって見えることだ。そして春、一度は桜並木の下を走ってみることを勧める。満開の桜は日本の春の美しさを感じさせてくれるだろうし、吹雪のように舞う花びらは、風と共に車内に舞い込むことであろう。

ロールス・ロイスとベントレーは、いつの時代もオープン・ボディのモデルとともにあった。もともと1930年代以前は屋根のないボディの方が多数を占めていた時代であったから、ロールス・ロイス・シルバーゴーストやクリックルウッド(工場のあったロンドンの地名)時代のベントレーは、当時の写真で見ても軽量なオープン・ボディのものが多数を占めている。1930年代半ば以降はスチール製のクローズド・ボディが増えてくるが、それでもセパレート・シャシー付きの時代はまだ、コーチビルダーたちがオープン・ボディの製作にそれぞれのデザインや仕上げを競った。ボディ構造がフルモノコックとなったシルバーシャドーに至って、傘下となったマリナー・パークウォードが2ドア・クーペとオープンのモデルを用意し、コーニッシュの名前でカタログにのせたのがその最後の例である。

1980年代に入ってベントレー・ミュルザンヌ(ロールス・ロイスはシルバースピリット)が登場した時、そのクーペおよびオープンのモデルはいったん消滅した。会社がヴィッカースの傘下にあった時代である。ミュルザンヌは実質的にシルバースピリットと同一の車で、いわゆるバッジエンジニアリングで生み出されたものであった。これを良しとしなかったのがサー・デヴィッド・プラストーと、彼の後任となったピーター・ワードという二世代のロールス・ロイス・モータースのトップであった。このうちサー・デヴィッド・プラストーはベントレーの高性能化を図って、1985年にミュルザンヌ・ターボRとしてシリーズに追加した。ロールス・ロイス自製のV8にターボチャージャーを加えた試作エンジンは1台のカマルグ(グリルはベントレーのものがつけられていた)に積み込まれて40万キロ以上もテスト走行が行われ、その結果生産化が決定されたのだという。余談だが、その試作ベントレー・カマルグ・ターボは1982年にその使命を終えて解体されたそうである。

もう一人のピーター・ワードは、ロールス・ロイスとは別の、ベントレー独自のクーペ・ボディというアイディアを生んだ。そこで英国のインターナショナル・オートモーティブ・デザインに依頼して、プロジェクト90というコンセプトカーを製作、1985年のジュネーブ・ショーに出品した。IADでその2ドア・クーペ・ボディの造形を行ったのは、ジョン・ヘファーナンとケン・グリーンリーの二人である。ベントレー自身がこうしたショー専用のモデルを出すこと自体、初めてのことであったが、プロジェクト90はその時期のロールス・ロイス・モータースが財政的に余裕のない時期であったことから、走行モデルではなく、モックアップとして作られていた。それにもかかわらず、ショーでの反応は大きく、ジュネーブの主役の座を占めた。その望ましい反応からベントレー専用のクーペ・モデルを開発することが決められ、1991年にデビューしたのがコンチネンタルRである。それを最も手短に説明するなら、ベントレー・ミュルザンヌ・ターボRのフロアパネル、V8ターボ・エンジン、サスペンションを利用して、その上に2ドア・クーペ・ボディを構築したものである。

コンチネンタルRは所期の成功を収めた。次に望まれるのは久しく絶えていたオープン・ボディ版である。かつては数多く存在したコーチビルダーがその役割を果たしていたのだが、すでに彼らは姿を消していたか、中には自動車メーカーの一部門となっていたものもあった。そこでベントレーが頼ったのが、カマルグのボディスタイルなどでつながりのあったイタリア・トリノのピニンファリーナであった。英国内のコーチビルダーの代役を、イタリアのカロッツェリアが果たす時代となったのである。

ピニンファリーナはボディスタイルの造形だけではなく、コンバーチブルの幌の格納システムやその機構についても経験が深く、各種の特許を持っていた。また、量産工場をグループ内に持っていたことも、こうした場合には望ましいことであった。なお日本車でも、初代のホンダ・シティがカブリオレ・モデルを製作する際、やはりピニンファリーナの協力を仰いだことが知られている。

そして1995年3月のジュネーブ・ショーにデビューしたのが、ベントレー・アズールである。それはコンチネンタルRの大柄なボディを受け継ぎ、ターボ付きV8エンジンによる高性能を備えたトップクラスのドロップヘッド・クーペ/コンバーチブルであった。

ピニンファリーナは立てた時には流れるようなクーペ・スタイルとなる幌をデザインしただけではなく、その電動格納式のメカニズムも設計している。また、幌に加えて、ボディ単体の生産も担当した。コンチネンタルRと共用のボディパネルやフロアユニットはクルーのロールス・ロイス工場からトリノに送られ、ピニンファリーナで補強の上単体ボディとして仕上げられる。その状態で今度はクルーの送り返され、そこでエンジンやサスペンションの最終組み立てが行われるのである。

フロントに搭載されたロールス・ロイス自製の総軽合金製90度V8、6.75リッター・エンジンは、ギャレット製のターボチャージャー1基で過給され(インタークーラーを備える)、空車状態で2トン半を超えるこの車を、最高速240km/h、0-100km/h加速6.5秒で走らせる実力を発揮した。その一方、このエンジンのもう一つの性格は最大トルクが2000rpm前後で発揮されるという、低速トルクの力強さにあった。オートマチック・トランスミッションはコンチネンタルRの3段ではなく、同じGM製ながら新しい4段型が組み合わされている。

1995年のデビューから2003年まで、言い換えれば20世紀から21世紀へ移る時期に生産されたベントレー・アズールは、大人4人がゆったりと座ることのできる広い室内を持ち、それにトップクラスの性能を備えたドロップヘッド・クーペ/コンバーチブルである。現在、メーカー自身のサイトではコンバーチブルと表記されているが、英国の伝統的な呼び方はドロップヘッド・クーペである。英語圏ではほぼ共通に用いられている。

なおこの初代アズールの生産が終了した後、休止時期をはさんで2006年から2009年まではベントレー・アルナージをベースとした第二世代アズールが生産された。


 

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