1963 Daimler SP250

1963 Daimler SP250 | 1963 デイムラー SP250

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1963 Daimler SP250   Information

ロイヤルワラントの老舗が贈る、超個性派ブリティッシュスポーツカー

 年式1963
 メーカー Daimler
 モデル SP250
 ボディータイプ Convertible
 コーチビルダー
 ボディーカラー Blue
 内装 Gray
 付加情報 
 

要約:1950年代末にデイムラーが初めて手掛けたスポーツカー。新設計のV8 2.5リッター・エンジンは高く評価されたが、デイムラーの業績を回復させるには至らなかった。デイムラーの伝統を強く意識したスタイルのボディはFRP製。販売開始からいくらも経たないうちにデイムラーがジャガーに吸収されたことで、1964年には姿を消した。

エリザベス女王陛下の御料車には、現在は特製ボディのベントレーが用いられている。それ以前はしばらくロールス・ロイスの時期が続いた。私自身もロンドン市内を走っている時に、クイーン・マザー(女王陛下の母君)の乗るロールス・ロイスの背の高いリムジンとすれ違ったことがある。そうしたことから、英国王室とロールス・ロイスは離れがたく結びついているように思われるかもしれないが、実際にR-Rが英国王室の公式車として用いられるようになったのは1960年からと、さほど古いことではない。それ以前、20世紀初頭から1960年まで、ロイヤル・ファミリーが乗る車といえば、デイムラーであったのである。それもフーパーがボディを架装したデイムラーというのが、その時代の決まりであったし、そうしたモデルには静かな威厳のようなものが備わっていた。

日本の皇室でも、自動車を用いはじめた頃には、親しかった英国王室の影響でデイムラーを用いていた。大正時代の皇太子、後の昭和天皇陛下の最初の公式車はオープン・ボディのデイムラーであって、当時の台湾巡幸などにはその車を用いている。

もう一つ、日本の皇室とデイムラーのかかわりをあげておこう。1954年に当時の皇太子殿下(後の平成天皇陛下)がエリザベス女王陛下の戴冠式に参列された。その折に1台のデイムラーを持ち帰られた。そこで、ある輸入車販売会社では同型のデイムラーを2台、英国から取り寄せた。宮内庁で用いる自動車は1台ということは稀で、同型を複数所有するのが通例になっていたからである。ところが期待に反して、宮内庁は興味を示さなかった。そこで販売会社ではそのデイムラーをモーターショーに出すことにした。その初日、デイムラーを飾っていたコーナーにショーの名誉総裁を務められている宮様がお見えになった。そして近くにいた係員に「これはスリーブ・エンジンか」とお尋ねになったそうである。戦前のデイムラーといえば、スリーブバルブを用いた静粛なエンジンで知られていたのである。宮様はその時代のデイムラーについて、充分な知識をお持ちだったのだろう。そして係りの人が「いえ、普通のバルブでございます」とお答えすると、ちょっとがっかりされた御様子であった、と伝えられる。

こうした話に象徴されるように、戦前のデイムラーといえば、リムジンであるとか、ランドーレットなどの優雅なボディを持った宮廷用の車両のメーカーとして知られていた。その会社の経営に雲がかかるようになったのは、1950年代に入る頃からである。その頃、会社をコントロールしていたのは世に知られた財産家のサー・バーナード・ドッカーであった。彼は1949年にレディの称号を持つ(夫が“サー”の称号を与えられた場合、その夫人に“レディ”が冠せられる、彼女の場合は前夫が“サー”であったので、バーナード・ドッカーとの結婚の時点ですでに“レディ”であった)ノラ・コリンズと結婚している。やがてレディ・ノラは自分の好みの内装やボディの塗色を持ったデイムラーを作らせ、それをショーに出品するようになった。人々はこの時期の会社をドッカーのデイムラーと呼んだが、それには賞讃と落胆の二面が込められていた。そうした派手なショーモデルは新聞や婦人誌などでは話題として大いにとりあげられたが、会社の業績には結びつかなかったし、昔からの伝統的な車作りを好む人々は、むしろデイムラーから離れていってしまったからである。

これに危機感を持った重役たちは、やがてサー・ドッカーを役員からはずし、新しい経営体制を敷いた。その新体制が打ち出したのが、それまでのデイムラーよりはひとクラス普及型というべき中型サルーンと、同じエンジンを用いたスポーツカーの開発であった。サルーンの方は生産コストを下げるために、ボクスホールの一部のボディパネルを流用することなどが考えられていたが、早い時期にそのサルーン計画はキャンセルされた。一方で新型車用の新しいエンジンは、アメリカに販売の中心を置くことなどから、V型8気筒が選ばれた。その新エンジンの設計に当たったのは、アリエル・スクエア・フォーや2気筒トライアンフなど、優れたモーターサイクル用ユニットを生んだエドワード・ターナーである。彼はそれまでの二輪用エンジンの経験と実績、それにプロジェクトが急を要するものであったことを勘案して、プッシュロッド方式を選んでいる。SOHC、あるいはDOHCなどを選択した場合には、実用化までに多くのテストを重ねなければならず、時間のかかることが心配されたのである。

問題はシャシーであった。それまでのデイムラーは大きなリムジン等を主力としていたから、2500ccクラスのスポーツカーの経験はない。ここでも時間的制約から、開発チームは既存のモデルから学ぶことにして、トライアンフをその対象に選んだ。実際、出来上がったデイムラーSP250のシャシーは、その形状やサスペンションなど、トライアンフから忠実に範をとったものになっていた。サスペンションは前輪がダブルウイッシュボーンにコイルの独立、後輪は1/2楕円リーフのリジットである。ただ、ブレーキは4輪ともディスクにグレードアップされていた。

2座オープンのボディはFRPで作られることになった。すでにデイムラーでは、トラック部門などでFRPの製作技術を持っていたし、このSP250のような少量生産の場合には、スチール・ボディを作るための金型を用意しようとすると、費用が掛かりすぎると計算されたためである。スタイルの第一印象から感じられるのは、強い個性である。ことにイタリアン・スタイルのトライアンフなどを見慣れた目からは、スマートさであるとかスピード感が足りないと思われるかもしれない。しかし、自動車も人も、第一印象だけから判断したのでは、真の姿は伝わらないものである。少しでも踏み込んでそこへ至るまでの行程を知ったならば、第一印象では見えなかったものが見えてくるはずだ。このSP250のスタイルも、実はデイムラー伝統の細かな流儀を、2座スポーツカーに取り入れようとしたものであるのが理解されるだろう。たとえばラジエターグリルそのものは、スポーツカーとしての低さに対応して縦横比を変えているが、その上に設けられた幾条ものリブは、ロイヤルカーに用いられていた頃からのデイムラーの特徴そのものを残している(人々はそのリブを見ただけでロイヤルカーを連想した)。また、ヘッドライトの上に小さなランプを置くのも、彼らが伝統的にとってきたやりかたである。

そして前後のホイールアーチの、流れる波を思わせる曲線。実はこのホイールアーチの曲線は、最初の試作車が作られた時にはまだつけられていなかった。それにリアフェンダーが上に向かって跳ね上がっていくようなテールフィンも、プロトタイプでは生産型より高く作られていた。時はまさにアメリカでテールフィンが最も華やかな時代で、どのメーカーでもその高さと華やかさを競っていたところだったのだから、アメリカ市場での販売を考えるならば、最新流行は採り入れておかなければいけなかったのであろう。そこから、最初の試作車のスタイルはデイムラーの一族であることを感じさせる部分はほとんどなかった。生産型になった時にテールフィンの高さを控えめに抑え、フェンダーの名残りのホイールアーチを加えたことで、これがデイムラー一家の一員であるというイメージが感じられるようになっている。他にもデイムラーの家系に属するものがいくつもあることだろう。イギリスの製品によくあるように、このデイムラーSP250もまた、身近に置いて長く使いこむほどに、新しい魅力が見つかる、という種類に属する車なのだから。


 

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